比叡山――。
鬼若は、毎日厳しい修行に励んでいた。





だが、山を下りるたび目にするのは、力なき者が踏みにじられる世の中だった。
武士は農民から米を奪い、旅人を脅し、逆らう者には容赦なく刀を抜く。
寺へ戻っても、僧たちは首を横に振るだけだった。
「武士には逆らうな。」
「争いを起こせば寺にも災いが及ぶ。」
鬼若は拳を握り締めた。
「力を持ちながら弱い者を苦しめる武士が許せない。」
「仏の教えだけでは、人は救えない。」
「ならば、この腕で守る。」
その日から鬼若は、人知れず山奥で木刀を振り続けた。
滝に打たれ、岩を駆け、誰よりも重い薙刀を振る。
血で染まった手を見つめながら、少年は誓う。
「どんな武士より強くなる。」
「泣く者を守るために。」
弁慶への道
それから鬼若は修行に明け暮れた。
滝に打たれ。
岩を駆け。
丸太を担ぎ。
誰よりも重い薙刀を振る。
山の僧たちは言った。
「鬼だ……。」
少年は静かに答えた。
「鬼でもいい。」
「泣く人がいなくなるなら。」
この日から鬼若は、
やがて天下に名を響かせる
武蔵坊弁慶への道を歩み始める。
ある日のこと。
鬼若は托鉢のため、山を下りていた。
一人の旅人が、犬を連れて歩いてくる。
「坊さま、これを。」
旅人は笑顔で、握り飯を差し出した。
「ありがたく頂きます。」
鬼若は深く頭を下げた。
旅人と犬は、ゆっくりと山道を下っていく。
その時だった。
「ぎゃあーーっ!」
山道に悲鳴が響く。
鬼若は振り返り、一目散に駆け出した。
そこには旅人が倒れ、その傍らには刀を手にした浪人が立っていた。
浪人は血の付いた刀を眺め、薄笑いを浮かべる。
「ふん……なかなかの切れ味だ。」
「金も少々いただけたぜ。」
犬は主人を守るように激しく吠え続ける。
鬼若の胸に、怒りが込み上げた。「弱き者から奪って生きるなど、武士の道ではない!」
「……許せぬ。」
浪人は鬼若を見て笑う。
「なんだ、小坊主か。」
「ちょうどいい。次はお前で試してやる。」
刀が振り下ろされる。
しかし次の瞬間――。
鬼若は浪人の腕をつかむと、その一撃を受け止めた。
怪力に刀は宙を舞い、浪人は地面へ叩きつけられる。
なおも立ち上がろうとした浪人に、鬼若の渾身の一撃が炸裂した。
浪人は動かなくなった。
山は道には静寂が戻る。
犬だけが、主人の亡骸のそばで悲しげに鳴いていた。
鬼若は旅人を静かに埋葬し、手を合わせる。
「どうか安らかに。」
そして犬の頭をそっと撫でた。
「お前も、主人を失ってしまったのか……。」
犬は静かに鬼若を見つめる。
「わしも……もう寺へは帰れぬ。」
「人を救うために力を振るった。」
「この先は、自分の道を歩もう。」
鬼若は空を見上げた。
「一緒に来るか。」
犬は一声だけ吠え、鬼若の隣に並んだ。
こうして少年は比叡山を後にする。
弱き者を守る力を求め、
悪しき武士を打ち倒すため、
全国を巡る武者修行の旅へ――。
やがて人々は、この怪力の僧兵をこう呼ぶことになる。
武蔵坊弁慶。

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