林羅山という男――家康に買われた「書物の虫」の生涯

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人物伝 / 江戸のはじまり

武力で奪った天下を、何で治めるのか。その問いに「書物」で答えた男がいた。刀を持たず、書を抱えて、徳川三百年の骨組みをつくった林羅山の生涯をたどる。

天正十一年(一五八三)といえば、羽柴秀吉が賤ヶ岳で柴田勝家を破り、天下人への階段を駆け上がっていた年である。この同じ年、京の四条新町の町家に、のちに江戸幕府の知的な屋台骨を築く男が生まれた。林羅山、幼名を忠(のちに信勝)という。

家は武士ではない。かといって豪商でもなく、京の町なかの、さほど裕福でもない家であった。少年は伯父の家に養われたといい、その才気だけが際立っていたらしい。何しろ、本を読む。読んだものを忘れない。後年の彼を知る者は、この男の頭は書庫そのものだと評したが、少年の頃からすでにそうであった。

二建仁寺と、僧にならなかったこと

十三歳のころ、彼は京の建仁寺に入れられた。当時の寺はいまの大学のようなもので、漢籍を学ぼうとすれば寺に入るのが常道だったのである。

ところが羅山は、ここで妙なことをやる。学問は吸収する。しかし、僧にはならない。周囲が剃髪を勧めても、首を縦に振らなかった。寺を出て家に戻り、独学で朱子の書に没頭する。

仏教の寺で育ちながら、その仏教を批判する側に回る。よほど肚が据わっていたのか、単に自分の頭で考える人間だったのか。おそらく両方であろう。

三惺窩との出会い

慶長九年(一六〇四)、二十二歳の羅山は、一人の人物を訪ねた。藤原惺窩である。相国寺の禅僧でありながら僧衣を脱ぎ、儒者として生きることを選んだ、当代随一の朱子学者であった。

翌年、惺窩は羅山を徳川家康に推薦する。家康は、天下を取った者のつねとして、「力で奪った天下を、何で治めるか」という問いを抱えていた。この老獪な人物は、学問に目を向けはじめていたのである。

四二条城での対面

慶長十年(一六〇五)、二条城。二十三歳の若者は、六十四歳の天下人の前に出た。家康は試すように次々と質問を浴びせ、羅山はよどみなく答えた。家康の人物鑑定は早い。「これは使える」と見たのであろう。以後、羅山は侍講のような立場で仕えることになる。

ただし、条件があった。僧の姿になることである。かつて僧になることを拒んだ男が、天下人に仕えるために剃髪し、「道春」と名乗った。当時の幕府では、学者は公的には僧の身分で扱われていたからである。時代の制度が、この男の信念よりも先にあった。羅山はこれを受け入れた。理屈よりも、仕事のできる場を選んだのであろう。

五家康、秀忠、家光、家綱

羅山が際立つのは、一人の主君ではなく、四代の将軍に仕えたことである。幕府が手探りだった時代から、体制が固まるまで、彼は一貫して「文」の側にいた。外交文書の起草、朝鮮通信使への対応、『寛永諸家系図伝』の編纂。つまり彼は、徳川の世の「言葉」を整える男であった。

武力で天下を取った家は、そのままでは正統性が薄い。そこで必要になるのが「なぜ徳川が治めるのが正しいのか」という理屈である。身分の上下を天地の秩序になぞらえる朱子学は、幕藩体制にまことに都合がよかった。

もっとも、ただの御用学者かといえば、そう簡単でもない。イエズス会士ハビアンとの論争に見られるようにキリスト教を批判し、神道についても書を残した。思想の人としての顔も持っていたのである。

六方広寺鐘銘事件

羅山の名がもっとも陰影を帯びて語られるのは、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件であろう。豊臣秀頼が再建した大仏殿の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、徳川方が難癖をつけた。家康の名を切り、豊臣を君として楽しむ呪詛だというのである。

この件には金地院崇伝とともに羅山も関わった。大坂の陣へ至る道筋で、学者の知識が政治の道具として使われた場面である。羅山自身がどこまで本気だったかはわからない。ただ、学問が権力と結びついたときに何が起こるかを、この事件は雄弁に物語っている。

七忍岡から湯島聖堂へ

寛永七年(一六三〇)、将軍家光は羅山に上野の忍岡の土地を与えた。羅山はここに私塾を開き、尾張の徳川義直の援助を受けて孔子を祀る先聖殿を建てる。

この学問の場が、のちに湯島へ移って湯島聖堂となり、幕府の学問所(昌平坂学問所)へとつながっていく。林家は代々、幕府の学問を司る家として続いた。羅山個人の事業というより、一つの「家」と「制度」の始まりであった。

八書物と、大火

明暦三年(一六五七)正月、江戸を明暦の大火が襲った。江戸の町の大半が焼けるという未曽有の災厄であり、羅山の蔵書もこの火のなかで失われたという。生涯をかけて集めた書物である。

羅山はその数日後に世を去った。七十五歳。火事のあとの衰弱もあったろうし、書を失った落胆もあったと伝えられる。書物とともに生き、書物とともに去った、といえば美しすぎる話に聞こえるが、この男にはそれがもっともふさわしい最期のように思える。

結あとがきふうに

林羅山を「権力に擦り寄った学者」と見る人もいる。たしかに、そういう一面はあった。しかし、戦国の余燼がくすぶる時代に、「力でなく秩序で世を治める」という方向へ日本の統治を押し出した、その一端を担ったことは否定できない。

その是非は別として、羅山は、乱世が終わったあとの世に必要とされる種類の人間であった。刀を持たず、書物を抱えて、それでも歴史を動かした。そこに、この人物のおもしろさがある。

林羅山 年表

1583京都に生まれる
1596頃建仁寺に入るが、出家せず学問を修める
1604藤原惺窩に入門
1605二条城で徳川家康に謁見、仕える
1614方広寺鐘銘事件に関わる
1630上野忍岡に土地を賜り、私塾・先聖殿を設ける
1657明暦の大火の直後に死去(75歳)
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