商人・角倉了以、京と日本の物流を変えた男

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一、医者の家に生まれた商人

京の都というのは、不思議なところである。

応仁の乱で焼け野原になりながら、百年たたぬうちに、町衆という奇妙な人種を生んだ。武士でもなく公家でもなく、銭と才覚だけで世を渡り、ときには将軍の膝元でも物を言う。角倉了以は、そういう京の町が産み落とした、もっとも風変わりな町衆の一人であった。

生まれたのは天文二十三年(一五五四)。京の西、嵯峨の里の吉田家である。

吉田家は医者の家であった。それも並の町医ではない。了以の父の宗桂は、海を越えて明国に渡り、かの国の医術を学んだ人であった。日本の医者が明の都に上って学び、皇帝の病に触れたという話は、当時の日本人にとって月へ行った話に近い。

余談だが、この宗桂という人物が了以の性格を考える上で大切である。父は「海の向こうには、日本とは桁違いの世界がある」ということを、身をもって知っていた。息子は幼いころから、その話を子守唄のように聞かされて育ったに違いない。

ところが了以は、医者にならなかった。

家業の医術は一族の吉田宗恂らが継ぎ、了以は土倉(高利貸しを兼ねた質屋・倉庫業)の角倉の家を継いだ。金を扱い、商いを営む家である。医者の子が銭屋の主になるというのは、いまの感覚でいえば妙だが、当時の京にあってはさして珍しいことでもない。

ただ了以が他の京商人と違っていたのは、算盤を弾きながら、いつも目を遠くへ向けていたことである。

二、海を見た男

了以の目が向いていたのは、川と海であった。

京の町衆にとって、商いの敵は距離である。物は重く、道は険しく、荷駄を仕立てれば人手も飼葉もかかる。これに対して水の上は、荷を積みさえすれば、あとは流れが運んでくれる。了以はそのことを、頭ではなく肌で知っていた。

徳川の世が始まる少し前、了以は朱印船貿易に手を染める。豊臣の世の終わりから徳川の初めにかけて、日本の商人たちが東南アジアへ船を出した、あの華やかで危うい時代である。

了以が船を向けたのは、いまのベトナムであった。当時の日本人はここを安南と呼んだ。

慶長九年(一六〇四)、了以は朱印状を得て、安南へ船を送る。以来、彼の船は十数度も海を渡ったという。持ち帰るのは生糸や絹織物、砂糖、香木などで、日本からは銀や銅、工芸品を積んで出した。京の一介の町人が、南海の港で異国の商人と談判しているのである。

想像してみよう。船底の暗がりで、荷の目録を睨んでいる角倉の番頭たち。港には唐人が行き交い、香辛料の匂いが鼻を刺す。了以本人が船に乗っていたかどうかは定かでないが、少なくとも彼の頭の中には、南の海の地図がはっきりと描かれていたはずである。

このあたりが、了以の面白いところだ。

彼は商人として大成しかけていたが、その視線は「儲け」よりもむしろ「水の道」そのものに向いていた。海の道が富を生むなら、川の道もまた富を生む。なぜ日本の川は、こうも人の役に立たぬのか、と了以は思ったであろう。

三、大堰川という難物

答えは、故郷の嵯峨にあった。

嵯峨の西を流れる大堰川(いまの桂川の上流、保津川)は、丹波の山から流れ下る大きな川である。丹波は木材の宝庫であり、米や炭もふんだんに出る。この物資を京へ運べれば、どれほどの利益になるか知れない。

ところが川は、それを許さなかった。

保津峡と呼ばれる渓谷は、両岸に岩が迫り、川底には巨岩が沈み、水は白く泡立って牙を剥く。ここを舟で下ろうとする者は、命を捨てる覚悟が要った。地元の者は「あの川は人の通る道ではない」と、あきらめきっていた。

了以は、それを岩ごと変えようとしたのである。

慶長十一年(一六〇六)、了以は幕府の許しを得て、大堰川の開削に着手する。息子の素庵がこれを助けた。

工事の様子は、いまの土木工事とはまるで違う。重機などあろうはずがない。人夫が鑿と鎚で岩を割り、火で焼き、水をかけて割れ目を作る。川底の巨岩には縄をかけ、大勢が引く。急流では舟が転覆し、人が流され、ときに命を落とす。

それでも了以は退かなかった。

伝承によれば、了以は自ら川に入って人夫を励まし、酒を振る舞い、賃金をはずんだという。このあたりは京商人らしい合理である。人は褒美でも動くし、恐れでも動くが、いちばん長く動くのは「この人のためなら」と思ったときである。了以は、その呼吸を知っていた。

数年の後、保津の急流に一筋の水路が通り、丹波の荷を積んだ舟が、京の嵯峨へ滑り込むようになった。

この舟は、のちに「保津川下り」として、観光の名物にまでなる。四百年後の旅人が、歓声をあげながら急流を下るのは、じつは了以の鑿の跡の上なのである。

四、富士川という大仕事

大堰川の成功は、徳川家康の耳にも届いた。

家康という人物は、使える者を見つけると、ためらわずに使う。了以は駿河の大御所に呼ばれ、次の仕事を命じられる。

富士川である。

日本三大急流の一つとして知られるこの川は、甲斐の国から駿河の海へ注ぐ。甲斐は年貢米の産地であり、その米を江戸や駿河へ運ぶには、川の道が欲しい。しかし富士川は、大堰川以上の暴れ川であった。

慶長十二年(一六〇七)、了以はこの難事業にも取り組み、岩を砕き、水路を整えて、甲斐から岩淵(いまの静岡県富士市)への舟運を開いた。ここでも彼の仕事は、単なる土木ではなかった。川を使う舟の仕組み、荷役の段取り、運賃の取り決め、それらをひとまとめにして、一つの「運送の産業」に仕立てたのである。

静岡にお住まいのあなたなら、富士川の流れを見るたび、あの急流を舟が下っていた光景を想像してみるのも一興であろう。

ちなみに了以は、天竜川にも手を伸ばしたと伝えられるが、こちらは思うようにはいかなかったらしい。自然というものは、どれほどの才覚をもってしても、ときに人を退ける。了以のような男でも、負ける川はあったのである。

五、高瀬川 ― 京の町に掘った運河

了以の名を京の人々にもっとも親しく残したのは、高瀬川であろう。

これは山や谷の川ではなく、京の町中に人の手で掘られた運河である。

慶長十六年(一六一一)ごろから、了以は京の二条から伏見へ通じる運河の計画を進める。当時、方広寺の大仏殿の再建など、京では大規模な普請が続いており、伏見から都へ資材を運ぶ道が切実に求められていた。伏見は淀川水運の要であり、大坂から上ってきた荷が集まる。その荷を京の中心まで舟で入れることができれば、京の経済は一変する。

賀茂川の水を引き、木屋町のあたりに沿って南へ流す。川幅は狭く、水深も浅い。そこで使われたのが「高瀬舟」という底の平たい小舟であった。この舟は、浅い水でも荷を積んで動くことができる。

運河の両岸には荷揚げ場ができ、材木問屋が並び、町は活気づいた。木屋町という地名は、そのなごりである。

運河の完成は慶長十九年(一六一四)。了以の生涯の最後を飾る事業になった。

六、死と、その後

その年の七月、了以はこの世を去る。享年六十一。

人生五十年といわれた時代に、六十を越えて働き続けた男であった。死の床で、彼は何を考えていたか。おそらく、次の川のことであったろう。この手の人物は、事業が終わったとき満足するのではなく、次の事業の設計図を頭の中で描きながら死ぬものである。

彼の死後、事業は息子の素庵が継いだ。

素庵は父とはまるで違う人物であった。商才もあったが、それ以上に学問と芸術の人であり、藤原惺窩に学び、本阿弥光悦とともに、いわゆる嵯峨本と呼ばれる美しい活字本を世に送った。『伊勢物語』や『徒然草』の美麗な版本は、この角倉の家の文化事業の産物である。

父は川を拓き、子は文を拓いた。

これはまことに面白い親子の取り合わせで、角倉家という京の商家が、単なる銭の家ではなく、日本文化の一つの結節点であったことを示している。

七、了以とは何であったか

最後に、角倉了以という人物の、本質を考えてみたい。

彼は武将ではなかった。戦場で名を上げたわけでもなく、天下を取る野心を抱いたわけでもない。それでいて、戦国から江戸初期にかけての日本で、これほど「世の形」を変えた民間人は稀であろう。

彼が生涯をかけて変えたのは、「物の流れ」であった。

戦国の世は、城と武士の世である。しかし江戸の世は、物流と経済の世になる。その転換点に、了以のような男が立っていた。彼は、武力で国を統べる時代が終わり、物と銭が国を動かす時代が来ることを、直感していたのではないか。

町衆の子が、海を渡り、川を拓き、大御所に頼られる。身分の壁が固まりきる前の、この短い時期にだけ許された、痛快な生き方である。

いま京都の高瀬川のほとりを歩くと、川べりに小さな舟が置かれ、桜の季節には水面が花びらで埋まる。人々は、それをただの美しい景色として眺めている。

しかし、その水路が、四百年前に一人の男の執念によって掘られたものだと知れば、風景の見え方は少し変わるであろう。

川というものは、自然のものだと人は思う。しかし日本の川の多くは、名も知れぬ人々の、そして角倉了以のような男の、手で人間の道に変えられてきたものなのである。

角倉了以(すみのくら りょうい)の生涯年表

角倉了以(すみのくら りょうい)は、1554年(天文23年)に京都・嵯峨に生まれました。

海外貿易で財を築いた豪商である一方、私財を投じて河川を開削し、京都と各地を結ぶ水運の整備に尽力した人物です。

大堰川(保津川)、富士川、高瀬川などの水運事業で知られ、後世には「水運の父」とも呼ばれています。


角倉了以の生涯年表

西暦和暦年齢出来事
1554年天文23年0歳京都・嵯峨に生まれる。父は医師・吉田宗桂。幼名は与七、諱は光好。
1571年元亀2年17歳後に「角倉素庵」と呼ばれる長男・与一が生まれる。
1592年文禄元年38歳豊臣秀吉から朱印状を受け、海外貿易に進出。安南(現在のベトナム北部)方面との貿易に携わる。
1600年慶長5年46歳関ヶ原の戦い。以後、徳川家康の時代となる。
1603年慶長8年49歳徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く。了以も徳川家から朱印状を受け、海外貿易を行う。
1604年慶長9年50歳角倉船による朱印船貿易を進め、安南方面との交易を展開する。
1606年慶長11年52歳大堰川(保津川)の開削工事に着手。 丹波と京都を結ぶ水運の整備を目指す。
1607年慶長12年53歳富士川の舟運開発に着手。 駿河と甲斐を結ぶ水運の整備を進める。
1608年慶長13年54歳富士川の舟運整備を進める。一方、幕府の命を受けた天竜川の通船工事は中止となる。
1609年慶長14年55歳朱印船貿易を行う一方、国内の河川・水運事業にも力を注ぐ。
1610年慶長15年56歳鴨川の疎通工事に着手。 京都市中への物資輸送を支える水運整備を進める。
1611年慶長16年57歳高瀬川の開削工事に着手。 京都と伏見を結ぶ新たな水運路の建設を進める。
1612年慶長17年58歳富士川の工事が完成。 同年、高瀬川の工事を本格的に進める。
1613年慶長18年59歳朱印状を得るものの、了以自身は海外渡航を行わず、角倉家の海外貿易は次第に長男・素庵へ引き継がれていく。
1614年慶長19年60歳高瀬川の工事が完成。 大悲閣千光寺を建立。7月12日、60歳で死去。二尊院に葬られる。

角倉了以の生涯・重要ポイント

① 海外貿易で財を築く

角倉了以は京都の豪商として活動し、朱印船貿易によって安南方面との海外交易を行いました。

豊臣秀吉の時代から朱印状を得て貿易に携わり、徳川家康の時代にも海外貿易を続けました。

こうして得た財力が、後の大規模な河川開削事業を支えることになります。(CVV)


② 52歳で保津川の開削に挑む

1606年(慶長11年)、了以は大堰川(現在の保津川)の開削に着手しました。

丹波地方には木材などの物資が豊富にありましたが、険しい保津峡が大きな障害となっていました。

そこで了以は巨岩などを除去し、水運を可能にする工事を進めました。

これによって丹波と京都を結ぶ水運が大きく発展することになります。(保津川下り)


③ 富士川の舟運を整備

1607年(慶長12年)には富士川の工事にも取り組みました。

富士川は甲斐と駿河を結ぶ重要な交通路でした。

了以は河川を利用した物資輸送を整備し、陸上交通だけに頼らない物流網の構築を進めました。

1612年には富士川の工事が完成したとする年表資料があります。(CVV)


④ 京都の高瀬川を開削

角倉了以の代表的な事業が、高瀬川の開削です。

1611年(慶長16年)に工事に着手し、1614年(慶長19年)に完成しました。

高瀬川は京都と伏見を結ぶ水運路となり、京都へ物資を運ぶ重要な物流ルートとして利用されるようになります。(Kyotofukoh)


⑤ 60歳で生涯を終える

1614年(慶長19年)7月12日、角倉了以は60歳で亡くなりました。

その年には高瀬川の工事も完成しています。

了以は二尊院に葬られ、現在も京都には角倉了以ゆかりの史跡や像が残されています。(京都通百科事典)


角倉了以の功績まとめ

角倉了以の生涯を一言でまとめると、

「海外貿易で築いた財力を、国内の水運整備に注ぎ込んだ豪商」

といえるでしょう。

特に重要なのが、

朱印船貿易
↓
財力を蓄える
↓
大堰川(保津川)開削
↓
富士川の舟運整備
↓
鴨川の疎通
↓
高瀬川開削

という流れです。

角倉了以の事業によって、京都と周辺地域を結ぶ水運が整備され、物資輸送の発展に大きな役割を果たしました。

その功績から、後世には**「水運の父」**とも称されています。(CVV)


基本プロフィール

名前: 角倉了以(すみのくら りょうい)
本名・諱: 光好(みつよし)
幼名・通称: 与七(よしち)
生年: 1554年(天文23年)
没年: 1614年(慶長19年)7月12日
享年: 60歳
出身: 京都・嵯峨
職業: 豪商・海外貿易家・土木事業家
主な事業: 大堰川(保津川)、富士川、鴨川、高瀬川などの水運整備
墓所: 二尊院(京都市右京区)
後世の呼称: 「水運の父」

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