裏表(うらおもて) 背負い投げの同心
第一話「口入れ屋の失せ物」
一
神田の外れ、大川端に近い一角に、居酒屋「おきん」はあった。
暖簾をくぐれば、煮しめた大根の匂いと、醤油の焦げる香ばしい匂いが鼻をつく。土間に並べた床几には、仕事終わりの職人や棒手振りが肩を寄せ合い、湯気の立つ土鍋を突きながら安酒をあおっている。
店を切り盛りするのは、この店の名の由来でもある看板娘、おきん。愛想はいいが口も達者で、酔っ払いの一人や二人、軽くあしらうくらいはお手のものだった。

「おう、いらっしゃい……って、あんたか」
暖簾をふらりとくぐってきた男を見て、おきんは呆れたような笑みを浮かべた。神谷一之進である。北町奉行所の同心と名乗ってはいるが、剣術の達人らしい鍛えた体つきの割には、いつもどこか気の抜けた顔つきで、この店に暇さえあれば入り浸っている。
「今日もオカラかい」
「うむ。ここのオカラに勝るものはこの江戸におらぬ」
一之進は真顔でそう言うと、床几にどっかりと腰を下ろした。同心という身分にしては、注文するのはいつも一膳飯屋でも出すような、卯の花(おから)の炒り煮ばかり。安い、腹に溜まる、そして案外滋養があるというので、実のところ長屋暮らしの町人にはありがたい一品だが、それを侍が好んで食うというのは、いささか妙な取り合わせだった。
「侍様なんだから、もっと気張ったもの頼みなよ。ぶりの照り焼きとか」
「オカラでよい。銭の使い道は、他にある」
一之進はそう言って、懐からちゃりんと小銭を出す。おきんはそれ以上追及せず、湯気の立つ小鉢を彼の前に置いた。
二
その静かな夕刻を破ったのは、店の隅で飲んでいた大男だった。
「てめえ、酒が薄いって言ってんだろうが!」
近くの普請場で人足をしているという、六尺近い偉丈夫。名を熊吉というその男は、すでにしたたか酔っていた。膳をひっくり返し、そばにいた別の客の胸ぐらを掴み上げる。
「ちょ、ちょっと熊さん、やめとくれよ!」
おきんが叫ぶが、熊吉の力は並の男では到底止められない。店の亭主も、他の客たちも、遠巻きに見ているだけで手を出せずにいた。
「おいおい、穏やかではないな」
呟きながら、一之進はオカラの小鉢を惜しそうに脇へ置き、ゆっくりと立ち上がった。熊吉が振り向きざま、丸太のような腕を一之進めがけて振り下ろす。
次の瞬間だった。
一之進の体がふわりと沈んだかと思うと、熊吉の巨体が宙に浮き、そのまま土間の上に見事な弧を描いて叩きつけられた。背負い投げである。埃が舞い、店中が一瞬しんと静まり返った。

熊吉は目を白黒させながら、しばらく起き上がれずにいた。一之進は何事もなかったかのように、床几に座り直し、小鉢を引き寄せる。
「オカラが冷めてしまうではないか」
「……あんた、ただの同心さんじゃないよねえ」
おきんがまじまじと一之進を見つめた。彼はそれには答えず、ただ黙々と箸を動かし続けるばかりだった。
土間では、正気に戻った熊吉が「す、すいやせんでした……」と平謝りしながら、這うように逃げていく。店の亭主が慌てて後片付けを始め、客たちの間からはやんやの喝采と、どよめきが起こった。
「いやあ、同心の旦那、大したもんだ!」
「見た目によらねえなあ!」
囃し立てる客たちをよそに、一之進はただ、卯の花を口に運びながら、涼しい顔をしていた。おきんだけが、その飄々とした顔の奥に、何か底知れぬものを感じ取ったように、じっと彼を見つめていた。
三
騒ぎが収まって数日後のこと。おきんの店の常連でもある口入れ屋「升田屋」の主人、徳兵衛が、自宅の座敷で死体となって見つかった。
「酒に酔って、行灯を倒して火傷したあげく、心の臓が止まったんだろう」
検分に来た番屋の者は、そう軽く片付けた。座敷には割れた徳利が転がり、酒の匂いが濃く残っていたという。
だが、この話を聞いたおきんは、腕を組んで首をひねった。
「おかしいよ、それ。徳兵衛さん、うちにも何度も来てたけど、あの人は生まれついての下戸だもの。猪口一杯で真っ赤になって、頭が痛いって帰っちまうくらいの人だよ。そんな人が、一人で徳利を空にするまで飲むなんて、あるかい?」
ちょうど店に顔を出していた一之進は、オカラの小鉢を置いたまま、ふむ、と目を細めた。
「……それは、聞き捨てならぬな」
翌日、一之進は同心として、升田屋の検分に正式に赴くことになった。
四
升田屋の座敷は、片付けられてはいたものの、まだ焦げた畳の匂いが残っていた。一之進は同心らしく、周囲の者に二言三言尋ねた後、部屋の隅々に目を走らせた。
――割れた徳利。その欠片を拾い上げ、鼻先に近づける。酒の匂いは確かにするが、それにしては徳利の底に沈んだ澱(おり)の量が少なすぎる。丸一本を飲み干した者の徳利にしては、いささか不自然だった。
――行灯の油。燃え広がった跡から逆算すると、行灯が倒れたのは、酒に酔って歩き回った末というより、むしろその場に人がしばらく座り込んでいたことを示す焦げ方をしていた。
――そして、徳兵衛の帳場から見つかった、奉公人の斡旋を記した控え帳。ここ半年ほど、升田屋が江戸のさる大名家の中屋敷へ、幾人もの奉公人を送り込んでいる記録があった。その中の一人の名の上に、朱で小さく点が打たれている。まるで、誰かに目印をつけるかのように。
一之進の目の色が、わずかに変わった。表向きの同心としての詮索は、ここまでにしておくべきだろう。だが裏では――この控え帳に記された藩の名を、彼はすでに、別の筋から探っていたところだった。
「旦那、何か分かったのかい」
おきんが、心配そうに顔を覗き込んでくる。一之進は控え帳をそっと懐にしまい、いつもの飄々とした顔に戻って言った。
「……いや、まだ何とも。オカラでも食いに戻るか」
おきんは、その返事のはぐらかし方に、何か引っかかるものを感じながらも、それ以上は問わずに頷いた。
五
その夜、一之進は同心の羽織を脱ぎ、黒装束に身を包んで、升田屋の裏口に忍び込んだ。控え帳に朱点のついていた男の名は、弥太郎。元は博打で身を持ち崩した無宿者だったが、徳兵衛の口利きで、さる大名家の江戸中屋敷に奉公人として送り込まれていた。

奉公人名簿を検めると、弥太郎が運び入れたのは、屋敷の修繕用の材木だという名目の荷であった。だが一之進が公儀より内々に探っていたのは、この藩が禁じられた数の鉄砲を、密かに買い集めているという噂。材木に紛れて運び込まれるものが、果たして本当にただの木材か――そこに、探索の的があった。
升田屋の帳場の奥、隠し戸の向こうから、一之進は焦げた反故紙の束を見つけた。灰の中に、辛うじて読み取れる文字――「玉薬(火薬)」「三十挺」という墨の跡が残っていた。徳兵衛は、自らが仲介した奉公人斡旋の裏で、屋敷に運び込まれているものの正体に気づき、恐れをなして誰かに詰め寄ったのだろう。
その「誰か」が、口を封じるために動いた。
六
「――そこで何をしている」
低い声とともに、闇の中から一之進めがけて刃が振り下ろされた。中屋敷の用人配下と思しき男、帯刀(たてわき)である。一之進は身をひるがえしてこれをかわし、刀を抜くことなく、相手の懐に飛び込んだ。
「表向きは同心、され度、貴様の正体、とうに知れておる。公儀の犬めが」
「犬とは異なことを申す。ただの、オカラ好きの同心でござるよ」
軽口とともに、一之進の体がふわりと沈む。次の瞬間、帯刀の巨体は宙を舞い、升田屋の土間に叩きつけられていた。二度目の背負い投げである。当て身を一つ入れると、帯刀はそのまま気を失った。
翌朝、番屋に突き出された帯刀の白状により、事の次第が明らかになる。藩が禁を破って買い集めていた鉄砲玉薬の運び入れに升田屋が使われ、それに気づいた徳兵衛の口を封じるため、帯刀が酒に薬を混ぜて無理に飲ませ、事故と見せかけて始末したのだった。
七
「――ってことは、旦那、最初からずっと、その辺の裏側を探ってたってわけかい」
事件が一段落した後の店先、おきんは腕を組んで一之進をじろりと睨んだ。一之進は素知らぬ顔で、オカラの小鉢を引き寄せる。
「さて、な。それがしはただの、市井の些事を扱う同心よ」
「怪しいったらありゃしない。この間の背負い投げといい、今度のことといい……只者じゃないのは、もうバレバレなんだけど」
「オカラが美味い店があると聞けば、ただそれだけで参るような、暇な男でござるよ」
一之進はそう言って、涼しい顔で箸を進める。おきんは呆れたようにため息をつきつつも、どこか憎めない様子で、彼の隣に腰を下ろした。
事件の裏にあった藩の思惑――禁制の武具の密輸――は、まだその全貌を現してはいない。一之進の探索は、これからも続くのだろう。おきんがそのことに気づく日は、そう遠くないのかもしれない。
(第一話・了)
第二話「材木蔵の夜」
一
帯刀が番屋の牢で冷たくなっていたのは、捕らえられてから三日目の朝だった。
「腹痛だとよ。牢の飯にでも当たったんだろう」
牢番はそう言って首を振ったが、一之進は帯刀の唇の色を一目見て、口をつぐんだ。青黒い。飯に当たった者の色ではない。
その日の昼、一之進は奉行所の一室に呼ばれた。与力の松永源右衛門は、扇子で膝を叩きながら、渋い顔で言った。
「神谷。升田屋の一件は、これで仕舞いだ。帯刀なる男の私怨による殺し。榊山藩とは、かかわりなし。上からもそう申し渡された」
「榊山藩、でござるか。それがし、藩の名など一言も申し上げておりませぬが」
「……なに?」
「いや、失礼。近ごろ耳が遠くなり申した」
一之進は頭を掻いて、へらりと笑った。松永の目が一瞬だけ泳いだのを、彼は見逃さなかった。

二
その夜、「おきん」の暖簾をくぐったのは、一之進ではなく熊吉だった。
先日の酔っ払いとは別人のように、しおらしく頭を下げている。背には薪の束、手には大根が二本ぶら下がっていた。
「こないだの詫びでさ。酒はきっぱりやめやした」
「あんた、そんなもの担いで、ずいぶん殊勝じゃないか」
おきんが呆れ顔で受け取る。その奥の床几では、一之進が例によってオカラをつついていた。熊吉は一之進に気づくと、ぴしりと背筋を伸ばした。
「旦那。お礼かたがた、お耳に入れてえことがありやして」
熊吉の話は、こうだった。彼が今働く普請場は、本所にある榊山藩中屋敷の裏塀のすぐ脇にある。ここ半月ほど、月のない晩になると、屋敷の裏門へ荷車が入っていく。積んでいるのは材木だというが、「材木にしちゃ、車輪の沈み方が尋常じゃねえ」。
「それともう一つ。普請小屋の隅に、二日前から男が隠れておりやす。顔に痣のある、博打打ちみてえな野郎で。水をくれ、誰にも言うなと」
一之進の箸が、ぴたりと止まった。
「……顔の痣、とな」
「へえ」
「熊吉。案内を頼めるか」
おきんは二人のやりとりを、洗い物の手を止めて黙って聞いていた。

三
普請小屋の藁の中で震えていたのは、まぎれもなく弥太郎だった。
脇腹に浅い刀傷を負っている。一之進が持参した焼酎で傷を洗うと、弥太郎は歯を食いしばりながら、途切れ途切れに語った。
「あっしは、ただの荷運びのつもりだったんで……。ところが、荷を下ろす拍子に木箱が割れやして。中から出てきたのは、藁にくるんだ鉄砲でした。それを、用人の鷲尾様に見られちまって」
「口封じに追われたか」
「へい。徳兵衛の旦那が殺されたと聞いて、次はあっしだと」
弥太郎は懐から、油紙に包んだ一枚の紙を差し出した。荷の送り状である。
「次の荷は、晦日の晩。相生町の材木蔵に舟で着けて、夜のうちに屋敷へ運び込む算段だそうで。今までで一番数が多いと、鷲尾様が話しておりやした」
一之進は送り状を受け取り、じっと見つめた。荷主の欄に、朱の印が捺してある。榊山藩の家紋とは、どうも違って見えた。
「弥太郎。よくぞ持ち出した」
「旦那……あっしは、助かりますかい」
「うむ。オカラを食うても死なぬ男は、そう簡単には見捨てぬ」
意味の分からない返事に、弥太郎はきょとんとした顔をした。
四
翌日の夕暮れ、一之進が「おきん」の裏から出ようとすると、提灯を提げたおきんが土間に立っていた。
「行くんだろう。晦日の晩」
「……何のことやら」
「とぼけたって無駄だよ。あんた、昨日から顔つきが違うもの。それにね」
おきんは声をひそめた。
「うちの常連に、大川の船頭の源さんがいるだろ。あの人が今朝ぼやいてたのさ。晦日の夜に荷舟を三艘出せ、口止め料に小判を一枚ずつ握らされたって。怖くなって断ろうか迷ってるんだと」
一之進の目が、わずかに細くなった。
「源さんには、断らずに引き受けるよう伝えてくれ。あとは、それがしが」
「言われなくても伝えとくよ。その代わり」
おきんは腕を組んで、じろりと睨んだ。
「旦那、ツケが溜まってるの、忘れてないだろうね。死なれたら取りっぱぐれるんだから、必ず生きて帰ってきて、きっちり払っとくれ」
「……相分かった。オカラ三十杯分、しかと返そう」
一之進は苦笑して、暗くなり始めた路地へ消えていった。おきんはその背中が見えなくなるまで、提灯を掲げたまま立ち尽くしていた。
五
晦日の夜は、墨を流したような闇だった。
相生町の材木蔵の屋根の上で、黒装束の一之進は息を殺して下を見下ろした。大川から荷舟が三艘、ひそやかに着いている。積み下ろされた木箱の数は、ざっと五十。護衛の浪人らしき者が十人ほど、蔵の周りを固めていた。その奥で、痩せぎすの武士が指図を飛ばしている。あれが鷲尾主膳であろう。
木箱の一つが、蓋を外されて松明の明かりに晒された。藁の間から覗く、黒光りする銃身。
「――そこまでにいたそうか」
一之進は屋根から音もなく飛び降りた。
「な、何者だ!」
「ただの、オカラ好きの同心でござるよ」
浪人の一人が斬りかかる。ふわりと沈んだ一之進の体の上を、男が宙で弧を描いて飛び、木箱の山に激突した。一人。続けて二人目、三人目。土間に叩きつけられるたび、鈍い音と呻き声が闇に響く。
四人目を投げたところで、蔵の戸口のほうで大きな音がした。
「旦那! 逃げ道は、あっしが塞いでおきやした!」
熊吉だった。荷車に積んだ材木を、蔵の戸口に横倒しにして、敵の退路を断っている。
「なぜ来た」
「旦那一人じゃ、投げた奴らが積み上がって、邪魔になりやしょう。あっしが運びやす」
言うが早いか、熊吉は気絶した浪人の襟首をひょいと掴み、まるで米俵のように隅へ放り投げた。一之進は、思わず小さく笑った。

十人を投げ終えるまで、そう長くはかからなかった。だが、気づけば鷲尾主膳の姿は消えている。荷舟の一艘が、闇の中へ滑るように遠ざかっていくのが見えた。
「逃がしたか……」
そのとき、蔵の外に提灯の明かりが群れて、数十人の足音が近づいた。
「そこまでだ!」
先頭に立っていたのは、与力の松永源右衛門だった。配下の捕り方を従えている。
「神谷。夜回りにしては、ずいぶんな装いだな」
「これは松永様。ちょうど、よいところへ」
「この荷はすべて奉行所で預かる。お前は下がっておれ」
松永は木箱を運び出すよう命じ、その視線は一之進の懐のあたりを、ちらりとなぞった。一之進は何食わぬ顔で頭を下げたが、懐には、弥太郎が持ち出した送り状が、しっかりと収まっていた。
六
夜が白み始めるころ、一之進は「おきん」の暖簾をくぐった。
「遅いよ。……って、ひどい格好じゃないか」
おきんは寝ずに待っていたらしい。目の下に隈を作ったまま、泥だらけの一之進を見て眉をひそめた。
「黒装束、あんまり似合わないね」
「それは残念でござる」
「やっぱり、そういうことかい。ずっと、そういうことだったんだね」
一之進は答えず、床几に腰を下ろした。おきんは黙って湯気の立つオカラの小鉢を置いた。いつもより、少しだけ量が多い。
「ツケは、これで五杯分だけ引いといてやるよ」
「かたじけない」
一之進は箸を取り、懐から送り状をそっと取り出して、朝の光にかざした。朱の印は、榊山藩のものではなかった。もっと上の、もっと大きな筋を示す印である。
松永が最初に口を滑らせた藩の名。牢で消された帯刀。そして、奉行所の手に渡ってしまった木箱。
「……根は、深いな」
呟いた一之進の隣で、おきんは何も言わず、ただ黙って、彼の湯呑みに茶を注いだ。
(第二話・了)
裏表(うらおもて) 背負い投げの同心
第三話「糠床の朱印」
一
「空だった」
松永源右衛門は、平然とそう言った。
材木蔵の捕り物から二日後。奉行所の奥座敷に呼び出された一之進の前で、与力は扇子を膝に立て、まるで天気の話でもするような顔をしている。
「木箱五十、ことごとく中身は杉の端材であった。鉄砲など、影も形もない。神谷、お前は夜中に材木問屋の蔵へ忍び込み、浪人十人を投げ飛ばして騒ぎを起こした。相違ないな」
「はて。それがしが見たのは、確かに――」
「見たのは、お前だけだ」
松永は扇子をぱちりと鳴らした。
「向後十日、謹慎を申し付ける。組屋敷にて大人しくしておれ。よいな」
一之進は畳に手をつき、深々と頭を下げた。
「承知つかまつりました」
顔を伏せたまま、彼は考えていた。木箱は、あの夜のうちにどこかへ消えたのだ。五十箱を、一晩で。それができる者は、一人しかおるまい。
「ああ、それと」
去りかけた背中に、松永の声が追いかけてきた。
「口入れ屋の弥太郎とか申す男、行方が知れぬそうだな。見つけたら、真っ先に奉行所へ差し出せ」
「心得ましてござる」
障子を閉めた廊下で、一之進はいつもの気の抜けた顔のまま、懐の中の油紙の包みを、そっと指で確かめた。
二
「――で、それをうちの糠床に突っ込んでたってわけかい」
おきんの声は、静かな怒りに震えていた。
謹慎を言い渡された同心が、なぜか毎夕きっちり暖簾をくぐる。「組屋敷にて大人しく」の言い付けは、一之進の中では「腹の減る前に大人しく帰る」という意味らしかった。
「盗まれぬ場所と考えた。糠の中ならば、まさか誰も探すまい」
「あたしの糠床を何だと思ってんだい! 三年かけて育てた、うちの看板なんだよ!」
おきんは、糠まみれの油紙の包みを、二本の指でつまみ上げて突き出した。中の送り状は無事だったが、朱の印のあたりから、ほんのりと糠と胡瓜の匂いがする。
「それで旦那、この朱印、どこの誰のものか分かったのかい」
「それが分からぬ。榊山藩の印ではないことだけは確かだが」
「だったらさ」
おきんは、包みを解いて紙を拭きながら、店の奥の隅を顎でしゃくった。
「あそこの爺さんに見せてみたらどうだい」
隅の床几では、一人の老人が、猪口を舐めるようにして酒を飲んでいた。宗兵衛。浅草で印判師を営んでいた隠居で、三年ほど前から毎晩のように顔を出している。無口で、白髪の眉が濃く、飲むのは決まって銚子一本。
「印判のことなら、あの人が一番だよ。こないだも、あたしの店の判子の欠けを直してくれたんだから」
一之進は、ほんの一瞬だけ、隅の老人へ視線を向けた。すぐに目を逸らす。
「……見せるのは構わぬが、素性を問われよう」
「あたしが聞いてくる。旦那は黙ってオカラを食ってな」
おきんは送り状の朱印の部分だけを、手早く紙に写し取ると、老人の前へ持っていった。
「宗兵衛さん、ちょっと見てもらえるかい。知り合いが拾った書付の判なんだけど、どこの印か、分かるもんかねえ」
老人は皺だらけの手で紙を受け取り、しばらくそれを眺めていた。指が、朱の輪郭を、なぞるように動く。
「……これは、大名の家紋ではありませんな」
「そうなのかい」
「私印です。それも、かなり位の高いお方の。この角の落とし方、この彫りの深さ。二十年ほど前に、私の師匠が彫ったものと、よく似ております」
老人は紙をおきんに返した。

「堀越備前守様の、お家の内印でしょう。今は、御老中を務めておられるお方の」
おきんは思わず、手の中の紙を落としそうになった。
土間の反対側で、一之進の箸がぴたりと止まる。老人は何事もなかったように、また猪口を舐めはじめた。ただ、その眼だけが、一之進のほうを、ちらとかすめたようにおきんには見えた。
三
その夜、暖簾を下ろした「おきん」の戸を、叩く者がいた。
「相すまぬ。旅の者だが、水を一杯いただけぬか」
おきんが戸を開けると、痩せぎすの武士が、にこりともせずに立っていた。その後ろの闇に、浪人風の男が五人。
「――鷲尾主膳、でござるな」
床几に座ったままの一之進が、箸を置いた。
「これは奇遇。神谷殿とは、材木蔵以来か」
「謹慎の身ゆえ、夜遊びはできぬと思うておったが」
「なに、こちらも忙しい身でな。手短に済ませよう。糠床とやらに隠した書付、お返し願いたい」
おきんの顔から、血の気が引いた。一之進は肩をすくめる。
「よく調べたものだ。おきん、そなたのところの糠床、評判になっておるぞ」
「旦那、こんな時に冗談言ってる場合かい!」
鷲尾の手が、腰の刀にかかる。次の瞬間、店の暖簾が真っ二つに裂けていた。居合である。抜く手も見えなかった。
一之進は、その刃を紙一重でかわしながら、懐に飛び込んだ。ふわりと体が沈む。鷲尾の身体が肩の上に乗る。
――だが、宙に浮いたはずの鷲尾は、猫のように身をひねって、着地した。
「ほう」
一之進が、初めて感心したような声を漏らした。
「投げ技は、上方で見たことがある。心得ていれば、恐るるに足らぬ」
「なるほど。これは、骨が折れそうでござるな」
鷲尾の刃が、再び襲う。一之進はそれを、土鍋の蓋で受け、床几を蹴って相手の足元をさらった。土間に砕け散る徳利、飛び散る醤油、鷲尾の袖にべっとりと付いた煮しめの汁。
「くっ、汚らわしい!」
「それがしのオカラを侮るでない」
ぇ
四
鷲尾を縛り上げたのは、宗兵衛老人だった。
意外にも、その縄の結び方は、見事なほど手慣れていた。おきんが目を丸くしていると、老人は静かに彼女へ向き直り、深く頭を下げた。
「おきん殿。長らく、お世話になり申した」
「な、何だい、宗兵衛さん、急に改まって」
「わしは、印判師ではござらん。本名は、久世宗兵衛。元は御目付を務めた者。今は隠居の身ながら、神谷が江戸に潜ってより、上役として、その働きを見守っておりました」
おきんは、口を半開きにしたまま、老人と一之進を交互に見比べた。
「じゃ、じゃあ、毎晩うちで銚子一本だけ飲んでたのは」
「一之進の様子を、見張っておりました。あと、オカラも、案外うまいので」
一之進は、明後日の方角を向いて、黙々と土間の徳利の破片を拾っている。
「……あたしゃ、この店、どんなお役所の出張所なんだい」
「まあ、そう怒るな。飲み代は、お上の経費で落としておりました」
「なら、あたしの糠床の値段も、経費で落とせるかい」
「それは……相談してみましょう」
老人の口の端が、わずかに上がった。
鷲尾は、縛られたまま、憎々しげに二人を睨みつけていた。口は、固く閉じている。
「案ずるな。この男の口は、開かぬでよい」
久世老人は、おきんの写した紙を、懐から取り出した。
「堀越備前守。今のところ、御老中の中でも、最も清廉と評される御仁。だが、その内印が、鉄砲の荷に捺されていたとなれば話は別だ。榊山藩は、ただの隠れ蓑に過ぎぬ」
「では、その老中が、何のために」
「それを探るのが、これからの仕事よ」
老人は、一之進を見た。
「神谷。升田屋のような口入れ屋は、江戸に、まだ幾つもある。それぞれが、それぞれに、藩へ奉公人を送り込んでおる。次は、その筋を洗え」
「承知」
一之進は、破片を拾う手を止めて、短く頷いた。
五
夜明け前、鷲尾を乗せた駕籠が、老人の手配で闇の中へ消えていった。
店には、おきんと一之進が残された。壊れた床几、砕けた土鍋、醤油の染みのついた土間。朝の光が差し込む前の静けさの中、おきんは、しゃがみ込んで欠けた小鉢を拾っていた。
「……ねえ、旦那」
「うむ」
「あたしゃ、何も知らなかったんだね。この店で、毎晩、そんなことが動いてたなんて」
「知らぬほうが、良いこともある」
「そういう言い方、ずるいよ」
おきんは、小鉢の破片を掌に載せたまま、顔を上げた。
「でもね、もう知っちまったんだから。これからは、何か分かったら、ちゃんと教えとくれ。船頭の源さんみたいな耳なら、あたしの店には、いくらでも入ってくるんだから」
一之進は、しばらく黙っていた。やがて、ふっと息を吐き、いつもの飄々とした顔で笑った。
「……相分かった。頼りにしておる」
「それとね」
おきんは、ぐいと指を突きつけた。
「この土鍋と、床几と、暖簾の弁償。あんたのツケに、上乗せしとくからね」
「な、なに。それは、お上の経費で」
「久世様は、糠床の値段のほうを相談するって言ったんだよ。こっちは、あんたに請求する」
一之進は、返す言葉もなく、砕けた土鍋の欠片に目を落とした。ツケの残りは、いつの間にか、オカラ四十杯を超えていた。
窓の外が、白みはじめていた。大川の水面に、江戸の朝が、ゆっくりと広がっていく。
その朝の光の向こうで、江戸のどこかの口入れ屋の帳場に、また一つ、朱の点が打たれようとしていることを、まだ誰も知らない。

(第三話・了)



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