戦国時代というと、信長・秀吉・家康の時代を思い浮かべる人が多いだろう。しかし彼らが生まれるずっと前、中国地方の片田舎・出雲国で、とんでもない下剋上をやってのけた男がいた。その名は尼子経久(あまご つねひさ)。

守護代の地位を追われ、城を奪われ、無一文同然の状態から、気づけば中国地方随一の戦国大名にのし上がっていた――そんな人物である。今日はこの「じいさん」がいかにヤバかったかを、年表を追いながら語っていきたい。
名門のお坊ちゃんが、まさかの追放
経久は1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれた。幼名は又四郎。生まれながらにして出雲の支配層という、いわばエリートコースを歩むはずだった青年である。
家督を継ぎ、月山富田城を拠点に着々と勢力を伸ばしていた経久だったが、1484年、雲行きが怪しくなる。主君筋にあたる出雲守護・京極政経との対立が深まり、なんと守護代の地位を失い、居城である月山富田城から追放されてしまうのだ。
普通ならここで歴史から名前が消える。エリートが失脚し、そのまま没落していくパターンは戦国期にも江戸期にもいくらでも転がっている。
だが、経久は違った。
正月の奇襲、そして伝説へ

追放から2年後の1486年正月。経久は月山富田城を電撃的に急襲し、これを奪還したと伝えられている。
正月という、誰もが気を緩めている隙を突いた奇襲——このあたりの逸話は講談的な脚色も入っているとされ、史料的には検討の余地がある部分も多い(塩冶掃部介という人物の実在を巡っても異説がある)。とはいえ、「追われた男が正月に城を取り返す」という物語の骨格自体が、いかにも下剋上時代の幕開けにふさわしいドラマ性を持っている。
ここから経久の快進撃が始まる。単なる武力だけでなく、出雲国内の国人衆――つまり地元の中小領主たち――を一人ひとり味方に引き入れていく地道な手腕が光る。派手な合戦シーンよりも、こうした「根回しの巧さ」こそが経久の真骨頂だったのかもしれない。
気づけば中国地方の覇者に
1500年代に入ると、経久はもはや一介の守護代ではなくなっていた。名目上の主家である京極氏の勢力が弱まる中、実質的な出雲の支配者としての地位を固めていく。
そして1520年代、尼子氏はついに出雲を飛び出し、伯耆・石見・安芸へと勢力を拡大。1523年には安芸方面へも進出し、ここで後に天下に名を轟かせる大内氏、そして毛利氏との因縁が始まる。
1524年の「大永の五月崩れ」と呼ばれる伯耆への大規模侵攻も、この拡大路線の象徴的な出来事として語られる(ただしこちらも後世の史料に基づく部分があり、詳細には慎重な検証が必要とされている)。
息子の死、そして身内の反乱という試練
だが経久の人生は順風満帆な成り上がり物語だけでは終わらない。
1518年、嫡男・尼子政久が戦死する。後継者を失うという、当主にとって最も痛い出来事だ。そして追い打ちをかけるように、1530年、今度は三男・塩冶興久が経久に対して反乱を起こす。
実の息子による裏切り――しかも出雲西部の国人衆や寺社勢力まで巻き込んだ、尼子氏を揺るがす大事件だった。城を奪われた経験を持つ経久にとって、これはまさに過去の悪夢の再来だったかもしれない。
しかし経久はここでも屈しなかった。1534年、この内紛をついに鎮圧。興久は敗れて自害したと伝えられている。血を分けた息子との争いに勝利するというのは、栄光の裏にある戦国大名の孤独と非情さを物語っている。
隠居してもなお、影響力は健在
1537年、経久はすでに80歳近い高齢となり、家督を孫の尼子詮久(のちの晴久)に譲って隠居する。
しかし完全に表舞台から消えたわけではなく、後見人的な立場として尼子氏を支え続けた。1540年、孫の晴久が毛利元就討伐を目指して安芸へ進出し、吉田郡山城を包囲する大戦を仕掛けるが、この背後にも経久が築いた基盤の存在があったことは想像に難くない。
84年の生涯、その幕切れ
1541年、吉田郡山城攻略に失敗した尼子軍は撤退。そしてその年の11月30日、経久は月山富田城で息を引き取る。享年84。
守護代の座を追われた男が城を奪い返してから実に55年。彼が築き上げた尼子氏は、この時点で中国地方随一の大勢力となっていた。
まとめ:経久という男が教えてくれること
尼子経久の生涯を一言で表すなら、こうなるだろう。
「守護代の座を追われた男が、月山富田城を拠点に再起し、出雲を中心とする巨大勢力を築いた」
信長や秀吉のようなドラマチックな知名度こそないものの、経久がやったことは彼らに勝るとも劣らない大逆転劇だ。しかも彼の場合、一度の成功で終わらず、息子の死、実の息子の反乱という身内の悲劇すら乗り越えて、なお80歳を超えてなお現役だったというタフさが尋常ではない。
下剋上という言葉がまだ一般的でなかった時代に、その生き方そのもので下剋上を体現した男――それが尼子経久である。中国地方の戦国史を語る上で、この「じいさん」を外して話は始まらない。


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