木枯らしが辻を吹き抜ける宿場町、名を——上州は板鼻宿。
旅の一座も通らぬような鄙びた宿場に、その日、派手な太鼓の音が鳴り響いた。
「さあさあ、お立ち会い! 江戸表より参りました流しの太夫、神楽坂小僧が芸をご覧に入れやしょう!」






声を張り上げるのは、緋色の襷に裁っ着け袴、月代を結わずに髷を一本背に流した、凛々しい若衆姿の芸人。だが声の張りにどこか女の艶がある。町の者たちは知らない——これが実は、時を超えて江戸にたどり着いた娘、お時であることを。
年の頃は十八、九。すらりと伸びた首筋に、きゅっと結んだ紅い唇。前髪を潔く払った額の下で、意志の強そうな大きな瞳がきらきらと光っている。裁っ着け袴に草鞋履き、腰には伊達に差した木刀一本——遠目には凛々しい若衆にしか見えないが、笑うと片頬にひょいと笑窪が浮かび、とたんに愛嬌のある娘の顔がのぞく。見得を切るときはきりりと眉を上げて低く声を作り、ふとした拍子に見せる仕草——三味線の撥を耳の後ろに挟んだり、団子を頬張って両頬をぱんぱんに膨らませたりする様は、年頃の娘そのもの。この「男勝りの凛々しさ」と「隠しきれない可愛らしさ」の落差にやられ、贔屓筋の中には正体も知らずに惚れ込む若い衆が後を絶たない。
肩の上では、赤い頭巾を被った小さな栗鼠、コロが輪抜けの芸を披露し、見物人からやんややんやの喝采を浴びていた。
「へへ、コロや、今日の客はよく笑うねぇ」
お時が小声でそう囁くと、コロは尻尾をピンと立てて二度振った。これは「異常なし、稼ぎは上々」の合図である。
だが芸が終わり、投げ銭を懐に仕舞おうとしたその時、質屋「近江屋」の方角から女の悲鳴が上がった。
二
駆けつけてみれば、近江屋の裏庭で主人の弥兵衛が胸を刺されて息絶えていた。そばに呆然と座り込んでいたのは、近江屋に奉公する若い手代・伊佐吉。手には血の付いた匕首が握られたまま。
「お前がやったんだな、この人殺し!」
集まった野次馬が口々に伊佐吉を指弾する。岡っ引きの熊蔵も「動かぬ証拠だ」と伊佐吉を縄で縛り上げようとする。
伊佐吉は震える声で叫んだ。
「違います、あっしは旦那様が倒れてなさるのを見て、抜こうと匕首に触れただけで……!」
誰も信じない。だが、お時の肩でコロの目がふっと赤く光った。栗鼠の姿のまま、誰にも気取られぬよう小さく「キュ、キュキュ」と鳴く。これは「傷の角度、おかしい」の合図だ。
お時は群衆をかき分け、屈み込んで死体をあらためる振りをしながら、こっそりコロに囁く。
「傷は——右上から左下、か」
「キュッ」——そうだ、の合図。
「なら、右利きの伊佐吉がこの体勢で刺すのは、無理がある……」
お時の頭の中には、未来の知識——検死や物理の理屈が浮かぶ。だがそれをそのまま口にすれば怪しまれる。だから彼女はいつも、こういう時こそ江戸の顔で、江戸の理屈で語る。
三
「熊の親分さん、ちょいとお待ちなせぇ」
お時が啖呵を切るように前に進み出た。
「この伊佐吉さん、右利きだね。だったら旦那を刺すには、こっち側から、こう腕を回さなきゃならねぇ。だが傷はまるで逆——左手で、しかも旦那を後ろから抱くようにして刺した傷筋だ。伊佐吉さんにゃ、こんな芸当できやしませんよ」
「な、何を根拠に……」
熊蔵が気色ばむ。お時はにやりと笑って続けた。
「根拠もへったくれもあるかい。あたしゃ旅から旅を渡る太夫だが、人様の芸を見る目にゃ自信がある。人の体の動き、そこに嘘がありゃすぐ分かるのさ」
そう言って懐から取り出した扇子を、まるで芝居の見得を切るように広げる。
「本当に旦那を殺めた奴は——伊佐吉さんの後ろに立って、匕首を握らせた奴がいるはずだ。伊佐吉さん、あんた、旦那が倒れる前に、誰かとすれ違わなかったかい?」
伊佐吉ははっと顔を上げた。
「そ、そういえば——番頭さんが、裏木戸から出ていくのを見ました……」
野次馬がざわめく。近江屋の番頭・徳兵衛の顔色が変わった。
四
「な、何の証もねぇことを……! この小娘、いや小僧が、出まかせを!」
「出まかせかどうか、あんたの右の袖、よく見てみな」
お時が指差した徳兵衛の右袖には、飛び散った血の跡が微かに、しかし確かに残っていた。
「刺した返り血ってのは、殺した後もしばらく袖に残るもんさ。伊佐吉さんの着物にゃ返り血はねぇ。旦那を抱きかかえたときについた血が胸元にあるだけだ。だが、あんたの袖のそれは——どう見繕っても言い訳がきかねぇ代物だぜ」
徳兵衛が顔を歪め、身を翻して裏木戸へ駆け出そうとした——その刹那。
「早替わり、参る!」
お時の指先が、懐に忍ばせた小さな飾り玉——未来から持ち込んだ、掌に収まるほどの装置に触れた。かちり、と誰にも聞こえぬ音がして、玉がほのかに温もりを帯びる。次の瞬間、お時の脚に、腕に、羽が生えたかのような軽さが宿った。
町の衆の目に映ったのはこうだ。お時がひらりと三味線を放り投げ、赤い襷が宙で一度大きく円を描いたかと思うと、裁っ着け袴の裾がばっと翻り、朱と白の残像だけを残して、娘の姿がその場からかき消える。「あっ」と誰かが声を上げた時にはもう、お時は徳兵衛の背後にぴたりと立っていた。
だがそれは芸でもなんでもない。実際にお時がやっていたのは——地を蹴った刹那に装置の力を借りて常人の三倍の速さで踏み込み、徳兵衛が三歩進む間にその横を通り過ぎて背後へ回り込む、というだけの、種も仕掛けもある業だった。飛んだわけでも消えたわけでもない。ただ、あまりに速すぎて、人の目には「消えて、また現れた」としか映らなかっただけのこと。
「そこまでだよ、番頭さん」
お時は片手で徳兵衛の右腕をむんずと掴むと、そのまま肩の関節へ向けてくいっと捻り上げた。徳兵衛が「ぐぇっ」と間の抜けた悲鳴を上げて膝をつく。もう片方の手で襟首を押さえ、地面に軽く組み伏せてしまうと、お時は何食わぬ顔で乱れた前髪を掻き上げた。
「これも旅芸人の芸のうちさ。——なぁ、コロ?」
肩の上のコロが「キュッ」と一声、まるで拍手のつもりのように前足を打ち鳴らした。
「御用だ、御用だ!」
熊蔵たちが慌てて縄を打つ。
徳兵衛は膝から崩れ、洗いざらい白状した。近江屋の主人が帳簿の不正に気づき、詰め寄られたことに逆上して刺し殺し、たまたま通りかかった伊佐吉に罪をなすりつけようとしたのだった。
五
伊佐吉の縄が解かれ、町の衆から安堵のため息が漏れる。
「太夫さん、いや……あんた、一体何者なんだい」
熊蔵が訝しげに尋ねると、お時はにっと笑って三味線を担ぎ直した。
「なぁに、しがない旅の芸人よ。人の情と、人の体の動き——それだけ見りゃ、大抵のことは分かるもんさ」
肩のコロが「キュキュッ」と得意げに鳴く。お時は小声で「調子に乗るんじゃないよ」と苦笑した。
夕暮れの宿場を後にしながら、お時はふと空を見上げた。西の彼方、まだ見ぬ兄の行方——同心として市中を巡っているという噂の「神楽坂官之丞」の名を、この旅のどこかで耳にできるだろうか。
「コロ、次はどっちへ向かおうかね」
肩の上で、栗鼠はくるりと一回転してみせた。それは「東」を示す、二人だけの符牒だった。
「よし、江戸へ向かうとしようか」
三味線の音がひとつ、夕焼けの中に響いて、旅は続く。
(第一話・了)


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