まんが忍法 霞丸 霞斬り
風は、死んでいた。
その夜、京の外れの竹林には、一片の音もなかった。月は雲間に隠れ、地には濃い闇が這っている。剣を交える者にとって、これほど都合のよい夜はない——と、宮本武蔵は思った。




武蔵は、右手に長刀、左手に脇差を提げ、静かに歩を進めていた。二刀を同時に振るう者は、この国広しといえど、そう幾人もいない。武蔵にとって、二刀とは技であると同時に、思想であった。一刀をもって守り、一刀をもって攻める。守りながら攻め、攻めながら守る。それは、迷いを持たぬ者だけが到達しうる境地であり、武蔵は、自らをそう信じて疑わなかった。
竹林の奥に、人影があった。
小柄な、忍び装束の男である。名は霞丸というらしい。武蔵は、その名を耳にしたとき、笑った。霞などというものは、掴もうとすれば、指の間から逃げていく。名は体を表す、というが、この男、掴みどころのない生き方をしてきたのであろう。
「宮本武蔵と申す。忍びの技、見せてもらおうか」
霞丸は、答えなかった。ただ、腰の刀に手をかけ、鞘を払った。
月明かりに、その刀身が浮かぶ。奇妙な刀であった。真っ直ぐではない。心なしか、蛇のように、しなっている。
「妙な刀だ」
「妙、でござろうか。曲がっているのではござらぬ。……曲がることが、できるのでござる」
武蔵は、その言葉の意味を、深くは考えなかった。剣とは、まっすぐ振るうものだ。曲がる刀など、所詮、飾り物であろうと、武蔵は踏んでいた。
その油断こそが、武蔵という男の、唯一の弱点であったのかもしれぬ。
先に動いたのは、武蔵であった。二刀、同時に唸る。右の長刀は袈裟に、左の脇差は下から掬うように。これを同時に凌げる者は、まずいない。
霞丸は、躱した。ただ躱すのみで、反撃はしてこない。武蔵は、それを弱気と見た。二の太刀、三の太刀。連撃はなおも続く。霞丸は、紙一重で、それをかわし続けている。
だが——武蔵は、気づいていなかった。
躱すたびに、霞丸の刀身が、武蔵の刃にわずかに触れていることに。触れては離れ、離れては、また触れる。その一瞬ごとに、あの奇妙にしなる刃が、武蔵の太刀筋に、蛇のごとく沿っていくことに。
剣客というものは、往々にして、己の技の強さに酔う。二刀を同時に操れるということは、裏を返せば、両の手が、常に塞がっているということだ。武蔵は、それを弱みだと思ったことなど、一度もなかった。両手が塞がっているからこそ、隙がないと信じていた。
その慢心を、霞丸は見抜いていた。
最後の一撃を、武蔵は、渾身の力を込めて放った。二刀、同時に、袈裟と逆袈裟。これを合わせて受けきれる剣士など、天下にそうはおるまい。
霞丸は、受けなかった。
その刃を、絡めた。
しなる刀身が、するすると、武蔵の二刀に巻きつく。まるで、意志を持った蔦のように。武蔵が力を込めれば込めるほど、絡みは、かえって固く締まっていく。
武蔵は、両腕に力を込めた。渾身の膂力をもってすれば、この程度の細工、引きちぎれぬはずがない——そう思った。だが、腕は、動かなかった。刀は、動かなかった。
二刀流とは、両手を武器で塞ぐことである。
その両手が、封じられたとき、宮本武蔵という男に、残されたものは、何もなかった。
竹林に、静寂が戻った。武蔵は、身じろぎひとつできず、ただ、そこに立ち尽くしている。まるで、己の技そのものに、縛り上げられたかのように。
霞丸は、刀を絡めたまま、静かに、武蔵の脇を通り過ぎた。振り返りもせず、ただ、背中越しに、ひとこと。
「宮本武蔵、破れたりっ」
その声には、驕りも、嘲りもなかった。ただ、事実を告げるだけの、乾いた響きであった。
霞丸の姿は、竹林の闇に溶けるように、消えていった。
あとには、二刀を封じられたまま立ち尽くす武蔵と、風のない、死んだような夜だけが、残された。
剣とは、所詮、力の応酬に過ぎぬ。強さとは、常に、何かを犠牲にして成り立つものだ——武蔵は、後年、そう述懐したという。
真偽のほどは、知れぬ。



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