一閃と千の布石」




月のない夜、廃れた関所の跡地。
剣豪・柊十郎は、ただ一人でそこに立っていた。合図の狼煙は上がったが、敵の姿はどこにも見えない。
「出てこい。闇に隠れて何を待つ」
答える声はない。だが十郎は知っていた——伊賀の忍び・霞丸との勝負は、剣を交える前からすでに始まっているのだと。
足元の土が、いつもと違う。踏みしめた瞬間、微かな油の匂いが鼻をかすめた。松脂と魚油を混ぜたものだ。踏み込めば足を滑らせ、体勢を崩す。十郎は跳び、傍らの岩へ着地した。
「一つ目の布石、見切ったぞ」
暗闇から、乾いた笑い声が返る。
「さすがは柊十郎。だが、まだ九つ残っている」
二つ目は、頭上から降ってきた。小柄が風を切る音——十郎は身を捻ってかわしたが、袖が裂けた。仕込まれていたのは麻痺毒。かすり傷でも命取りだ。
三つ目、四つ目と、闇の奥から次々に罠が牙を剥く。撒菱、忍び針、幻惑の煙玉。霞丸は姿を見せぬまま、幾重にも張り巡らせた策で十郎の呼吸を乱そうとしていた。
だが十郎は退かなかった。むしろ、一歩また一歩と、罠の中心へと進んでいく。
「己の身を守ることに気を取られれば、それこそが敵の思う壺よ」
十郎は目を閉じた。視覚を捨て、気配だけを頼りに世界を感じ取る。風の乱れ、土の湿り、呼吸のわずかな乱れ——霞丸がどれほど巧妙に隠れようと、生きている限り、気配は完全には消せない。
「見つけたぞ」
十郎の刀が、闇を一直線に斬り裂いた。
同時に、崩れた石垣の陰から黒装束の影が転がり出る。額をかすめた一太刀に、霞丸は初めて動揺の色を見せた。
「千の布石を張ろうと……この一振りで終いよ」
霞丸は口の端を上げた。
「面白い。だが、これで十の罠のうち九つを使わせた。最後の一つは——お前の“慢心”よ」
その言葉と同時に、足元の石畳が音もなく沈んだ。落とし穴——最後の仕掛け。十郎の体が傾ぐ。
しかし十郎は、落ちながらも刀を振るっていた。読んでいたのだ。霞丸が勝利を語る、その一瞬の油断こそが最後の誘いだと。
峰打ちが、霞丸の首筋を正確に捉えた。
朝靄の中、意識を失った霞丸の傍らに、十郎は静かに刀を納めた。
「千の策も、心の乱れひとつで崩れる。忍びの術、見事だったぞ」
そう呟き、十郎は夜明けの道を歩き去った。剣は一振り。されど、その一振りに至るまでの静けさこそが、真の強さだったのかもしれない。



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