江戸城のある日。
将軍・徳川吉宗は、大岡越前守忠相に尋ねました。



越前は静かに答えます。
「人は誰しも、食べたい、暮らしを良くしたい、家族を守りたいという欲がございます。その欲があるからこそ、人は懸命に生きていけます。」
吉宗はうなずきました。
「では、欲は悪ではないのだな。」
「はい。しかし、その欲が過ぎれば、人は自らを滅ぼします。」
「それは、どういうことだ。」
越前は一体のだるまを持ってきました。
何も付いていないだるまを床へ転がします。
ころり。
だるまは何度倒れても、ゆっくりと起き上がりました。
「ご覧ください。このだるまは、倒れても必ず起き上がります。人もまた、身の丈に合った暮らしであれば、何度転んでも立ち直ることができます。」
そう言うと越前は懐から一枚の小判を取り出し、だるまの背中へしっかりと結びつけました。
再び転がすと――。
だるまは横倒しになったまま、起き上がれません。
越前は静かに言いました。
「このように、自分に不相応な金を背負えば、人は立ち上がれなくなるのです。」
吉宗は深くうなずきました。
「なるほど。欲そのものではなく、過ぎた欲が人を倒すというわけか。」
その言葉を聞いた越前は、一つの裁きを思い出しました。
ある日、一人の商人が買っただるま人形の中から、思いがけず大量の小判が見つかったのです。
商人は、
「これは私のものではありません。」
と店へ返しに行きました。
ところが店主は、
「売った以上、そのだるまはあなたのものです。中の小判もあなたがお持ちください。」
と言って受け取りません。
互いに譲らず、ついに大岡越前のもとへ持ち込まれました。
越前は詳しく調べさせると、その小判は、亡くなった老人が将来のためにだるまの中へ隠していた財産であることが判明します。
越前は裁きを下しました。
「小判は老人の正当な相続人へ返しなさい。」
そして、正直に届け出た商人には褒美を与え、誠実に応対した店主にも褒美を授けました。
誰一人として欲に流されず、正しい心を貫いたからです。
裁きの後、吉宗は微笑みながら言いました。
「越前。人の心を裁くとは、法だけではないのだな。」
越前はだるまを見つめながら答えます。
「はい。人は欲があるから生きていけます。しかし、その欲が身の丈を超えれば、自らを重くし、立ち上がれなくなります。だからこそ、人は足るを知る心を忘れてはならないのです。」
だるまは、身軽であれば何度でも起き上がる。
しかし、不相応な小判を背負えば、二度と立ち上がれない。
――それこそが、大岡越前が人々へ伝えたかった教えだったのです。


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