歴史には、不思議な運命を与えられた人物がいる。
戦国の英雄でもなく、名高い武将でもない。名もない一介の船頭でありながら、その人生が一国の歴史をわずかに動かした人物がいる。
大黒屋光太夫である。

彼は宝暦元年(1751年)、伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)に生まれた。伊勢湾は古くから海運で栄え、多くの廻船が江戸や大坂を往復していた。光太夫もまた、海を生業とする者として育ち、やがて千石船「神昌丸」の船頭となる。
天明2年(1782年)12月。
神昌丸は米や酒などの荷を積み、江戸へ向けて出帆した。いつもの航海になるはずだった。
しかし、駿河灘沖で冬の暴風が船を襲う。
帆は裂け、舵は折れ、船は海の力に身を任せるしかなくなった。
黒潮は情け容赦なく船を東へ東へと押し流していく。
海の上では、人間はあまりにも小さい。
江戸時代の船乗りは、そのことを誰よりも知っていた。
漂流は七か月にも及んだ。
食糧は尽き、水は雨に頼るしかない。日に日に仲間の顔はやつれ、それでも誰ひとり故郷へ帰る望みだけは捨てなかった。
ようやく陸影が見えたのは、現在のアラスカ州西方、アリューシャン列島のアムチトカ島である。
日本から四千キロ以上も離れた極寒の孤島だった。
そこには松林も田畑もない。
吹き荒れる風と雪、そして荒々しい海だけがある。
彼らは流木で小屋を建て、アザラシや海鳥を獲って命をつないだ。しかし寒さと飢えは容赦なく仲間を奪っていく。
異国の大地で死んでいった者たちは、故郷の土を二度と踏むことはなかった。
それでも光太夫は、生きることをあきらめなかった。
数年後、島を訪れたロシアの毛皮商人たちが彼らを発見する。
言葉は通じない。
だが、人が生きようとする意志は、言葉より先に伝わるものである。
光太夫は持ち前の聡明さでロシア語を覚え、人々の信頼を得ていった。
やがて彼はカムチャツカ半島へ渡り、さらにシベリア最大の都市イルクーツクへ向かう。
果てしないシベリアである。
冬になれば気温は氷点下四十度にも下がる。
馬ぞりは凍てつく大地を進み、河川は氷の道となる。
日本で育った一人の船頭が、その広大な世界を横断している。
そんなことを誰が想像しただろうか。
イルクーツクで、光太夫は一人の学者と出会う。
キリル・ラクスマン。
自然科学を愛し、人間の知性を信じた人物だった。
ラクスマンは光太夫の境遇に深く心を動かされ、「この日本人は故郷へ帰すべきだ」とロシア政府へ働きかける。
歴史というものは、時として一人の善意によって動く。
それを教えてくれる出会いだった。
1791年。
光太夫は帝都サンクトペテルブルクへ到着する。
そこで待っていたのは、ヨーロッパ屈指の大帝国を治める女帝エカチェリーナ二世である。
伊勢の一船頭が世界最大級の帝国の皇帝と向き合う。
歴史とは、まことに奇妙な舞台を用意するものだ。
光太夫は静かに願いを述べた。
「祖国へ帰りたい。」
女帝はその願いを聞き入れ、帰国を許可する。
天明2年に日本を離れてから、すでに九年の歳月が流れていた。
翌1792年、ラクスマンの息子アダム・ラクスマンに伴われ、光太夫は北海道・根室へ帰り着く。
漂流から十年。
ようやく祖国の土を踏んだのである。
だが、帰国は旅の終わりではなかった。
鎖国下の日本では、外国を見てきた者は貴重な証人でもあり、警戒すべき存在でもあった。
幕府は何度も光太夫を呼び、ロシアの政治、軍隊、文化、宗教、風俗に至るまで詳しく語らせた。
その記録は『北槎聞略』としてまとめられ、日本人が初めて知る本格的なロシア像となる。
一人の船頭が命を賭して見てきた世界は、日本という国の視野を静かに広げていったのである。
英雄とは、必ずしも刀を振るう者ではない。
絶望の海で希望を失わず、異国の大地を歩き続け、故郷へ帰るという一念を貫いた者もまた、歴史が生んだ英雄なのである。
大黒屋光太夫。
その名は、日本人が初めて世界の広さを肌で知った時代を象徴する、一人の冒険者として語り継がれている。


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