闇は、音でできていた。
梟(ふくろう)にとって、夜とはいつもそうだった。目に映るものより先に、耳が世界を組み立てる。木々のざわめき、獣の息遣い、遠くの川音――そのすべての隙間に、己の声を滑り込ませる。それが梟の忍法、**暗声(あんせい)**だった。


「――こっちだ」
声は、梟の左手、藪の奥から聞こえた。
だが梟自身は、そこから十歩も離れた古木の幹に貼りつくように潜んでいた。声だけが、勝手に別の場所を歩いている。
標的――いや、この夜に限っては標的ではない。対手(あいて)と呼ぶべきだろう。谺丸(こだままる)。対忍び専門に育てられた暗殺者で、今宵は互いの雇い主同士の争いに巻き込まれる形で、この山中で刃を交えることになった。
谺丸は足を止め、声のした方角へわずかに顔を向けた。だが、踏み出しはしない。
「藪の中にはおらぬな。……それが、貴様の得意技か。暗声」
低く、確かめるような声だった。梟は、僅かに眉を動かした。
谺丸は盲目ではない。だが、その耳は常人の域を超えている。生まれつき音に対する感度が異様に高く、幼い頃から「聴くこと」だけを鍛え上げられてきた男だと聞いていた。暗声のような、音の位置を欺く術に対しては、本来最も苦手とするはずの相手だ。――それでいて、最も厄介な相手でもある。
「右前方、五間(けん)。今度はそこから声を出してみせろ」
梟は動かない。声も出さない。
谺丸の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「出さぬか。上等だ。……貴様の術には、一つ穴がある」
梟の心臓が、僅かに跳ねた。
「暗声は、声そのものを別の場所に飛ばす術。だが、声を発する直前――貴様自身の呼吸だけは、誤魔化しようがない。吸って、止めて、吐く。その一瞬の”間”だけは、常に貴様の本体がある場所から生まれている」
谺丸は、静かに刀の柄に手をかけた。
「儂(わし)の耳は、その”間”を聴き分ける。声の位置ではない。声が生まれる前の、僅かな沈黙の位置をな」
――見抜かれている。
梟は奥歯を噛んだ。暗声は、位置を偽ることに長けた術だ。だが、術を発動する直前の呼吸だけは、どうしても本体からしか生まれない。それは今まで、誰にも気づかれたことのない急所だった。
「もう一度、声を出してみよ。次は当てる」
谺丸の声には、確信があった。
梟は、追い詰められていた。暗声を使えば、居場所を悟られる。使わなければ、この暗闇の中でただの一介の忍びに過ぎない自分は、谺丸の間合いに近づくことすらできない。
――どうする。
脳裏を過ったのは、幼い頃の記憶だった。まだ前髪も落とさぬ頃、任務の失敗で喉を刃で裂かれかけた夜。かろうじて一命は取り留めたが、それ以来、梟の声はひどく掠れ、震えるようになった。己の本当の声で話すことを、梟はずっと恥じてきた。だからこそ、他人の声を模し、居場所を偽る暗声という術に、誰よりものめり込んだ。
己の声から、逃げ続けるための術だった。
谺丸が、間合いを詰めてくる足音が聞こえる。もう猶予はない。
梟は、覚悟を決めた。
術を、解いた。
「――!」
闇の中、掠れた、決して美しくはない、震えを帯びた地声が響いた。
「ここだ」
偽りのない、梟自身の声。生まれて初めて、他人に向かって発した”本物”の一言だった。
その瞬間、谺丸の足が止まった。
音を聴き分けることにかけては、誰にも負けぬと自負していた耳が、初めて聴く「未知の音」に一瞬だけ惑わされた。偽りの声ばかりを聴き分けてきた耳には、飾り気のない、生の声の方がかえって異物だったのだ。
その一瞬――刹那にも満たぬ隙。
梟は古木の陰から躍り出て、谺丸の懐に飛び込んでいた。峰を返した刃が、相手の肩口を強かに打つ。谺丸は呻き声を上げ、片膝をついた。
決着だった。
谺丸は、荒い息をつきながら、片膝立ちのまま梟を見上げた。
「……今のが、貴様の本当の声か」
「そうだ」
「醜い声だな」
「知っている」
梟は短く答えると、刀を鞘に収めた。谺丸は、その返答に僅かに口の端を上げた。
「だが――儂の耳は、その声にしてやられた。皮肉なものよ。声を偽る術の使い手が、最後は偽りのない声で勝つとはな」
梟は答えなかった。ただ、夜風に耳を澄ませた。
己の声を恥じ、他人の声の裏に隠れ続けてきた歳月。だが今宵、初めて自分の声で誰かに届いた。その事実だけが、静かに胸の奥に残った。
山道を戻りながら、梟は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「……悪くない、声かもしれん」
闇はまだ深かったが、その一言だけは、どこにも偽りなく、まっすぐに夜へ谺(こだま)していった。
〈了〉



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