徳川家康の絶体絶命を救った漁師たち!東京「佃島」と「佃煮」に秘められた劇的な歴史ロマン
こんにちは、
ざつがくさんぽです。
今回は、私たちが普段何気なく食べているあの名物にまつわる、驚きの歴史ロマンを紐解いていきます。
「家康の命を救ったお礼が、まさか東京の土地だった!?」
日本の歴史が大きく動いた1582年。

織田信長が討たれた「本能寺の変」の裏で、もう一つの壮絶なサバイバルドラマが幕を開けていました。
今回は、絶体絶命の窮地に立たされた徳川家康と、彼を命がけで救った名もなき漁師たちの胸熱なエピソードをご紹介します。
絶望の幕開け「神君伊賀越え」と大河
時は天正10年(1582年)6月。
本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたという凶報は、わずかなお供だけを連れて堺(現在の大阪)を遊覧していた徳川家康の元にも届きました。
「このままでは光秀の軍勢に討たれる!」
家康は急遽、三河国(愛知県)の自領へと逃げ帰る決断を下します。
険しい山々を越え、野盗や落ち武者狩りの襲撃におびえながら進む死の逃避行。これが後に語り継がれる**「神君伊賀越え」**の始まりです。
しかし、堺を脱出して京都方面へ迂回しようとした一行の前に、いきなり巨大な障害が立ちはだかります。水量を増して濁流が渦巻く**神崎川(かんざきがわ)**です。
橋もなく、渡るための船も一切見当たらない。
背後からは追手の足音が刻一刻と迫り、目の前には越えられない川。
逃避行の序盤にして、家康一行は早くも万事休すの事態に陥ったのです。
暗闇の川へ漕ぎ出せ!摂津国・佃村の漁師たち
この大ピンチを救ったのが、神崎川の河口付近、現在の大阪市西淀川区にあたる摂津国佃村(つくだむら)の漁師たちでした。
その中心にいたのが、名主の森孫右衛門(もり まごえもん)。
彼らは家康の窮状を知ると、自分たちの小さな漁船を急遽かき集めました。
もし光秀側に寝返るか、家康を逃がしたことがバレれば、一族郎党の首が飛ぶほどの危険な賭けです。
それでも孫右衛門たちは、暗闇のなか船を出し、家康一行を無事に対岸へと渡したのです。
さらに彼らは、漁師が日頃から備蓄していた**「小魚の煮物」**を、過酷な逃避行の道中食として家康に持たせました。
塩分が効いて日持ちするこの保存食が、その後の険しい山越えで飢えと疲労に苦しむ一行の命を繋ぐことになります。
神崎川での彼らの決死の覚悟がなければ、家康は伊賀の山にたどり着くことすらできず、後の江戸幕府は誕生していなかったかもしれません。
義理堅い天下人。8年後の「招待状」
それから8年の月日が流れた1590年。
豊臣秀吉の命により、家康は長年治めた東海地方を取り上げられ、関東への国替えを命じられます。
新たな本拠地は、当時まだ見渡す限りの湿地帯だった「江戸」でした。
家康は、この未開の地を切り拓くにあたり、かつての恩人たちを忘れてはいませんでした。
「あの時、神崎川で助けてくれた漁師たちを江戸に呼ぼう」
家康は森孫右衛門ら佃村の漁師33人を江戸へ招き入れます。
そして彼らに、江戸湾での特別な漁業権と、無税での営業許可を与えました。
その代わり、彼らは幕府に美味しい「白魚」を献上する御用を任されたのです。
海を埋め立てろ!「佃島」の誕生
江戸にやってきた漁師たちは、与えられた鉄砲洲沖(現在の隅田川河口付近)の干潟を、なんと自分たちの手で埋め立て始めました。
長い年月をかけて築き上げたその新しい人工島に、彼らは故郷への強い思いを込めて名前を付けます。
それが、現在も東京都中央区に高級タワーマンションが立ち並ぶエリア、**「佃島(つくだじま)」**です。
家康の命を救った大阪の小さな村の名前が、東京の一等地の地名として永遠に刻まれた瞬間でした。
命を繋いだ保存食。「佃煮」のルーツ
さて、江戸湾で獲れた小魚を幕府に献上していた漁師たちですが、売り物にならない雑魚(ざこ)が余ってしまうことがありました。
そこで彼らは、神崎川で家康に持たせたあの時のように、余った小魚を塩や醤油で甘辛く煮詰め、自家製の保存食を作りました。
安くて日持ちが良く、しかもご飯に合うこの煮物は、やがて日本橋の魚河岸を通じて江戸の庶民の間で爆発的な人気を呼びます。
「佃島で作られた美味しい煮物」――。
そう、これこそが現在も日本の食卓で愛されている**「佃煮(つくだに)」**の始まりなのです。
まとめ:歴史は現代の足元に繋がっている
絶体絶命の川岸で立ち往生した武将と、命がけで船を出した漁師たち。
その劇的な出会いが、後に「佃島」という東京の街を生み出し、私たちが普段何気なく口にしている「佃煮」を生み出しました。
次にスーパーで佃煮を見かけたら、ぜひ400年前の暗闇の神崎川を駆け抜けた、名もなき漁師たちの勇姿を思い出してみてくださいね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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