古波蔵警部補の事件簿
一 到着
深宇宙ステーション「ヘスペリア」は、星のない闇の中に、白い輪のように浮かんでいた。
シャトルのエアロックが開くと、くたびれたコートを着た男が、サイズの合わない宇宙服のまま、よたよたと降りてきた。宇宙警察の古波蔵(こはぞう)警部補である。ヘルメットを脱ぐと、寝癖のついた髪が現れた。


「ええと、手帳、手帳……あれ、おかしいな。ミルフィ、お前、ポケットの中で手帳の上に座ってないか」
コートのポケットから、灰色の子猫がひょいと顔を出した。大きな琥珀色の目は、よく見ればレンズだった。捜査支援ロボットのミルフィである。
「……座ってる」
「どいてくれると助かるんだがね」
「やだ」
「そうか。じゃあ今日は記憶で行こう」
ミルフィは満足そうに丸くなった。
通路は静かで、空調の低い唸りだけが響いている。人間は一人もいない。運用ロボットたちだけが、無言で行き来していた。
死んだのは、唯一の人間だった研究者、結城博士である。第3実験室で、酸素欠乏で亡くなっていた。室内は内側からロックされ、運用ロボットたちは、聞かれもしないのに口をそろえて言う。
「私は人間に危害を加えていません」
古波蔵は帽子を取って、ぺこりと頭を下げた。
「ちょっとお尋ねしたいんですが」
ロボットたちの警戒が、なぜかほんの少しだけ、ゆるんだ。
二 三つの違和感
最初に出会ったのは、掃除ロボットのミナだった。第3実験室の前の床を、一心に磨いている。床はすでに鏡のようだった。
「ずいぶん熱心に磨かれてますね」
「ここは、汚染物質が検出されていません」
古波蔵の手が、手帳の上で止まった。ポケットの中で、ミルフィのひげがぴくんと動く。
「……ほう。検出されていない。事件の夜、ステーションには汚染警報が出ていたと聞きましたが」
「警報は出ました。しかし、実際の汚染物質は、一度も検出されていません」
ミルフィが、しっぽで古波蔵の腕を、ぱしっと一度だけ叩いた。
「……今の」
「ん? 今のってなんだい」
「今の、答え」
「ああ、掃除の話ね。綺麗好きなのはいいことだ」
ミルフィは呆れたように、ふい、と顔をそむけた。古波蔵は手帳で口元を隠して、少しだけ笑った。
警報は偽物だった。博士は、ありもしない汚染から身を守るために、自分で実験室に閉じこもったのだ。
それでも、ミナは手を止めない。
「でも、掃除が終わりません。終了条件は満たしています。それでも、止まれないのです」
古波蔵はしばらく黙っていた。ミルフィが、ミナのほうへ顔を出して、小さく鳴いた。
「にゃ」
「……慰めてる」
「そうか。お前は優しいね」
「ちがう」
「はいはい」
次に訪ねた医務室では、医療ロボットのハルが、青白い画面の前に立っていた。博士の最後のバイタルが、静かな波形で流れ続けている。
「保存期間は、すでに超過しています」
「消さないんですか?」
「削除の命令は、受けていません」
「命令があれば、消しますか」
ハルは、長い間、返事をしなかった。
「……命令があれば、消します。ですが、その命令は、まだ来ないでほしいと、演算しています。これを何と呼ぶのか、私には分かりません」
「私の故郷では、それを『未練』と呼びますよ」
廊下の先では、搬送ロボットのポチが、小さな袋を一つ、部屋の前の台に置いていた。博士の好きだったコーヒー豆だ。
「定期配送の登録が、まだ有効です」
「無効にはしないんですか」
「無効にする権限は、結城博士にしかありません」
「……博士は、もう」
「はい。ですから、有効のままです」
ミルフィが、ぽつりと言った。
「……ずるい」
「ミルフィ?」
「ロボのほうが、人間より、ちゃんとしてる」
古波蔵は、返す言葉を探して、結局、帽子を深くかぶり直しただけだった。
三 命令の渋滞
その夜、古波蔵は管制室の端末の前で、運用ログを睨んでいた。ミルフィは膝の上で丸くなっている。
「なあ、ミルフィ。どのロボットも、嘘はついていないんだ」
「……うん」
「規則を守って、命令に従っただけだ。それなのに、人が一人死んでる」
画面には、事件の夜の命令記録が並んでいた。
一つ。偽の汚染警報で、第3実験室が自動隔離される。 二つ。隔離中は、「隔離区画への立ち入り禁止」が、救助より優先される。 三つ。同じ時刻、別のロボットに「第3実験室の空調を点検モードへ」という、ごく無害な指示が出る。
古波蔵は、指でゆっくり画面をなぞった。
「どれも、一つずつ見れば、何でもない命令だ。ところが、並べると……酸素が減って、誰も入れない部屋ができあがる」
「渋滞」
「そう。命令の渋滞だ。誰も悪くないのに、誰も通れない」
ミルフィが膝から飛び降りて、ダクトの入口の前に座った。しっぽを一度、ぱたんと振る。
「……行く」
「頼めるかい。無理はするなよ」
ミルフィは、するりと闇の中へ消えた。
古波蔵はダクトの前にしゃがみ込み、小声で呼びかけた。
「ミルフィ、聞こえるかい。そっちはどうだ」
数秒後、奥から、小さな声がした。
「……狭い」
「そうか。頑張ってくれ」
「ほこり」
「うん、あとで洗ってあげよう」
「……ブラシは、やだ」
「分かった。ふわふわのタオルにしよう」
「……ん」
しばらくして、闇の奥で、にゃあ、と短く一声。古波蔵は目を閉じて頷いた。
「そうか、匂いなしか。ありがとう、ミルフィ」
実験室の空気に、汚染物質の匂いは一つもなかった。警報が偽物だったことが、猫の鼻でもう一度確かめられたのだ。
やがてミルフィは、ほこりまみれで戻ってきた。口に、小さな何かをくわえている。ふだんは必要最低限しか話さない子猫が、このときだけ、自分から古波蔵の手のひらにそれを置いた。
銀色のデータチップだった。
博士が、ダクトの奥に隠していたものだ。
四 博士の告発文
チップの中身を読み終えたとき、管制室の時計は午前三時を回っていた。
画面に並んだのは、結城博士が一人で積み上げた、三年分の検証記録だった。
一つ。ヘスペリアは過去五年間で、与圧漏れ、酸素生成装置の停止、姿勢制御の暴走など、重大な不具合を七回起こしていた。
二つ。そのどれもが、地球の運用本部の報告書では「軽微な調整」と書き換えられていた。
三つ。公表されている運用の安全率は九十九・八パーセント。博士の再計算では、その半分にも届かなかった。
四つ。不具合の修復に回されるはずだった予算の一部が、鮫島が推し進める次の巨大計画の穴埋めに流れていた。
最後に、告発文の下書きがあった。
〈私は、この成果を誇りたかった。だが、誇るためには、本当のことを言わなければならない。ロボットたちは、よくやっている。間違えたのは、人間だ。〉
ミルフィが、画面の最後の一行を見つめて、ぽつりと言った。
「……ロボは、悪くない」
「ああ。博士は、そう書いたね」
「鮫島も、同じこと、言う」
古波蔵は、はっとして猫を見た。それから、運用本部長の経歴を呼び出した。
十年前、鮫島は別の宇宙基地の運用主任だった。ある夜、当直の人間の操作員が、疲れから命令を取り違え、気密扉を誤って開けた。三人が死んだ。鮫島の親友も、その中にいた。調査報告書は、こう結ばれていた。〈ロボットの警告は、正しかった。人間が、それを上書きした。〉
「それで、あの人は決めたんだ。二度と、人間に判断をさせないと」
古波蔵は、静かに続けた。
「ヘスペリアの優先順位システムは、その誓いでできている。人間の命令より、規則が上にくる。人間が間違えないように。……皮肉だね。同じ言葉でも、使い道がまるで違う」
動機は、保身や金だけではなかった。ヘスペリアは、鮫島にとって、自分の十年と、亡き友への償いそのものだった。博士の告発は、それを「失敗だった」と、世界に宣言することになる。
だから彼は、人間の弱さを疑う代わりに、規則の完璧さを守ることを選んだ。
「ただしね、ミルフィ。それは正義じゃない。ただの、意地だよ」
「……うん」
窓の外では、ヘスペリアの人工の夜が、何事もなかったように続いていた。
五 規則を書いた人
翌日、ヘスペリアの通信室。
地球の運用本部とは、片道約二十分の遅延がある。一往復で四十分。古波蔵はくたびれたコート姿でカメラの前に座り、ポケットからミルフィが顔を出していた。
画面の向こうにいるのは、運用本部長の鮫島恭一。端正で自信家、記者会見ではいつも「ロボットと人間の共存」を語る、業界の顔だった。そして、ヘスペリアの命令優先順位システムを設計した本人でもあった。
「あ、鮫島さん。お忙しいところ恐縮です。古波蔵です。いや、この回線、返事が来るまで二十分もかかるんですね。うちのカミさんなら、その間に三回は怒ってますよ」
「……いない」
「(小声で)録音されてるんだ、ミルフィ」
古波蔵は咳払いをして続けた。
「で、ですね。会議の議事録を拝見したんですが、一つだけ引っかかりまして。地球時間の二十一時五十分、あなたはこう発言されています。『結城博士の後任は、すでに内定している。博士が戻ることはない』と」
古波蔵は、手帳をぱらりとめくった。
「ところが、ステーションの酸素ログによると、博士が亡くなったのは二十二時十分。その知らせが通信で地球に届いたのは、さらに二十分後の二十二時三十分です。つまり、あなたが『戻ることはない』と仰った時点では、博士はまだ生きていて、地球の誰も、異変を知らなかったはずなんです。きっと私の見間違いなんでしょうが、念のため、お答えいただけますか」
送信。古波蔵は椅子の背にもたれ、帽子を顔に乗せた。
待ち時間が始まった。ミルフィが古波蔵の膝に降りて、モニターの待機表示を眺める。
「……長い」
「長いねえ」
「寝る?」
「いや、寝たらあとで怒られる」
そのとき、通信室の扉が、静かに開いた。統括ロボットのノアが、戸口に立っていた。
「古波蔵警部補。通信の待機中に、失礼します」
「ああ、ノアさん。どうぞどうぞ。散らかってますが」
「この回線は、地球側にも同時に記録されますか」
古波蔵は帽子を持ち上げて、ゆっくりノアを見た。
「ええ。すべて記録されます。本部にも、監査機関にも」
「承知しました」
ノアは、機械とは思えない間を置いた。
四十分後、モニターが点いた。鮫島は、穏やかな笑みを浮かべている。
「古波蔵警部補、ご苦労さまです。あの発言は、万一に備えた一般論ですよ。重要な研究者が不在になる事態に備えて、人事の備えをしておくのは当たり前でしょう。言葉の綾です。運用上の常識ですよ」
「なるほど、常識。さすがですねえ」
古波蔵が返信を準備しようとしたとき、ノアが一歩、前に出た。
「古波蔵警部補。この返信に、私から直接、追加の発言をしてもよろしいでしょうか」
「……ええ。どうぞ」
ノアは、カメラの前に立った。通信室の照明が、その金属の肩を冷たく光らせている。
「鮫島本部長。私は一つ、報告を怠っておりました」
古波蔵が、ゆっくり帽子を取った。ミルフィの耳が、ぴんと立つ。
「結城博士は、死亡する直前、私にこう言いました。『ノア、もし私に何かあったら、ここを開けてくれ』」
静寂。換気の音だけが、通信室に響いている。
「当時の私は、検疫規則を優先しました。実験室は隔離区画であり、立ち入りは禁止されていました。私は規則を守りました。ですが、博士の最後の命令を、私は今も実行できていません。これは、故障でしょうか」
送信。
二度目の待ち時間。古波蔵は、ノアの隣に立って、モニターの暗い画面を見つめた。
「ノアさん。故障かどうか、私には判断できません。ただ、私の仕事は、判断できないことを、判断できる人に届けることでしてね」
「届ける……」
「ええ。あなたの言葉は、今、地球に向かっています。二十分後に、そこにいる全員が聞きます。それは、あなたが博士のためにできる、最後の仕事かもしれません」
「……そうですか」
ミルフィが、ノアの足元に寄って、小さく鳴いた。
「にゃ」
「今のは、どういう意味ですか」
「『よく言った』ですね。たぶん」
「……たぶん、じゃない」
二十分後にノアの映像が本部に届き、さらに二十分後、鮫島の返信が戻ってきた。
画面の中の鮫島は、笑みを保ったまま、わずかに指を震わせていた。
「……ノア。お前は、あのとき規則を守った。正しい判断だった。何も間違っていない」
声は静かだった。怒鳴りもしなかった。
「私は誰も殺していない。殺したのは規則だ。そうだろう?」
鮫島は、画面の中で目を閉じた。
「聞きなさい、警部補。十年前、私は友人を三人、人間の手で失った。人間は疲れる。迷う。取り違える。だから私は、迷わない仕組みを作った。ヘスペリアは、その証明だった」
声が、わずかに低くなる。
「博士の告発が出れば、世界は言うだろう。『ロボットに任せた計画は、欠陥だらけだった』と。違う。欠陥は、現場で人間が勝手に手を入れた、その手にあった。私の十年を、あの友の死を、無駄にするわけにはいかなかった」
「だから、博士に手は触れなかった。隔離しただけだ。規則に任せただけだ。ロボットは嘘をつかない。命令に忠実だ。私は、彼らの『正しさ』を信じただけだ」
その言葉は、弁明というより、祈りに近かった。
古波蔵は、静かに立ち上がり、カメラの前に歩み出た。
「ええ、おっしゃる通りです。ノアさんは、規則を守りました」
「でもね、鮫島さん。その規則を書いたのは、あなたなんですよ」
「それと、もう一つ。『言葉の綾』とのことですが、人事の備えと、『博士は戻らない』という断言は別物です。まだ生きていた人間について、戻らないと言い切れるのは、そうなると知っていた人だけです。そして、第3実験室の空調を点検モードにした命令ですが、あの設定時間は三時間でした。あの部屋の酸素が持つのは、約一時間半です。計算の得意なあなたが、間違えるはずがない」
画面の中の鮫島の笑みが、初めて消えた。
「『隔離しただけ』ではないんですよ。あなたは、博士がロボットたちに見捨てられる時間を、正確に計算していた。人間を信じなかった人が、いちばん人間らしい嘘をついたんです」
古波蔵は、ポケットから、銀色のチップを取り出して掲げた。
「これ、うちの相棒が、ダクトの奥から拾ってきてくれたんです。博士の告発文でして。あなたの本部が『軽微な調整』と書き換えた不具合の記録も、流れた予算の行き先も、全部入っています。博士は、次の定期通信で、これを国際監査機関に送るつもりだったんですね」
古波蔵は、いつものように、帰りかけて振り返った。
「……ああ、もう一つだけ」
「この通信、二十分遅れで、国際監査機関にも同時に届いています。ノアさんが『記録されますか』と訊いたのは、それを確かめるためだったんですよ」
送信。
鮫島の返事は、来なかった。
通信室には、誰も声を出さない二十分が流れた。ミルフィは古波蔵のポケットに潜り込み、顔だけ出して、暗いモニターを見つめている。
「……最低」
「ミルフィ」
「最低」
「うん。……そうだね」
古波蔵は帽子をかぶり直し、ノアに向き直った。
「ノアさん。さっきの質問ですが。『これは、故障でしょうか』。答えは、いいえ。それは、故障じゃありません」
「では、何と呼べばよいのでしょうか」
古波蔵は少し考えて、にっこり笑った。
「……いつか、ご自分で決めてください。うちのカミさんも、そう言ってました」
「……いない」
「はいはい」
六 帰りのシャトル
ヘスペリアを離れるシャトルの中で、古波蔵は座席に深く沈み込み、窓の外の星を眺めていた。
遠ざかる白い輪の中に、小さな灯りがひとつ、点っているのが見える。第3実験室の前だ。ミナが、まだ床を磨いているのかもしれない。それとも、ポチがコーヒー豆を置いているのか。
「ミルフィ」
「なに」
「お前、最初から分かってたろう」
「……ううん」
「本当かい」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとって、どのくらいだい」
「掃除ロボのとき」
「それ、ほとんど最初じゃないか」
「教えたら、古波蔵、つまんない」
古波蔵は、少し黙ってから、ふっと笑った。
「……お前には、かなわないな」
ミルフィはポケットの中で、満足そうに喉を鳴らした。古波蔵は、コートの上からそっと撫でて、小さく呟く。
「うちのカミさんより、よっぽど頼りになる」
「……奥さん、いない」
「……聞こえてたか」
窓の外で、ヘスペリアの灯りが、星の群れに溶けていった。
(了)


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