シーボルトの遺した探偵 明治ミステリー 第五話
「笑う人形」
――明治十年、東京――
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第一章 夜に笑う人形
日本橋のとある老舗の商家で、近頃おかしな噂が立っていた。
なんでも、夜な夜な、人形が笑うのだという。
もとより人形が独りでに笑うなどというのは、正気の沙汰ではない。しかし、その噂を語る奉公人たちの顔色は、どれも尋常ではなかった。青ざめ、目を伏せ、声を潜め、まるで自分の語る言葉に自分自身が怯えているかのようであった。

しかも奇妙なのはそれだけではない。前夜、たしかに座敷の隅に置いたはずの西洋人形が、翌朝になると、いつのまにか違う場所に立っている。誰も動かした覚えはない。誰も見た者もいない。ただ、気がつけば、そこにいる。
その夜も、主人は寝つかれぬまま廊下を歩いていた。行灯の灯がゆらゆらと壁に影を這わせ、家の中はしんと静まりかえっている。ふと、廊下の奥から、くすくす、と忍び笑いのような声が聞こえた。
女の笑い声であった。
いや――そう思えた、というべきか。
主人は思わず振り返った。そこには、古びた西洋人形が、うつろな硝子の目をこちらへ向けて座っていた。異国渡りの、青い瞳と亜麻色の髪を持つ人形である。埃をかぶり、頬の塗りはひび割れて、まるで長い年月の間、誰にも顧みられずにいたことを恨んでいるかのようであった。
「また……動いている」
主人がそう呟いた、まさにその刹那であった。
「オギャアッ……!」
奥の間から、赤子の泣き声が裂帛の勢いで響き渡った。母親が悲鳴のような声をあげて飛び起き、転がるように我が子のもとへ駆け寄る。だが、腕に抱き上げてもなお、赤子は火がついたように泣きやまぬ。まるで、この家の底に潜む何かに怯えているかのように。
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第二章 呪われた家
夜が明けても、家の中の空気は重く沈んだままであった。
主人は矢も盾もたまらず、慶應義塾の福沢諭吉のもとを訪ねた。文明開化の世にあって、迷信を斬って捨てることを常とするこの学者ならば、あるいは――という一縷の望みを抱いてのことである。
「先生、どうか、お助けください」
主人は畳に額をこすりつけんばかりに訴えた。
「我が家には……呪いがとり憑いております」
福沢は眉根を寄せた。
「呪い、とな」
主人が震える手で取り出したのは、あの古い西洋人形であった。福沢はしばし黙ってそれを検分し、やがて口の端に苦笑を浮かべた。
「人形が独りで歩き回るとは、これはまた、奇妙奇天烈な話だ」
だが、笑いはすぐに消えた。福沢の目に、ふと真剣な光がよぎったのである。
「しかし――赤子が苦しんでおるとあらば、これは笑い話では済まぬ」
福沢はすぐさま一人の女性を呼び寄せた。
シーボルトの娘にして、女医・楠本イネである。
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第三章 笑う人形
イネが屋敷に足を踏み入れたのは、その日の昼下がりであった。
彼女は座敷に通されるなり、まず人形を一瞥した。触れもしない。動かしもしない。ただ、じっと、値踏みするようなまなざしで見つめるのみである。その沈黙は、周囲の者たちにいっそうの不安を呼び起こした。
「夜になると、笑うのでございます」
主人が消え入りそうな声で言う。
イネは静かに問うた。
「その笑い声を、最初にお聞きになったのは、どなたでしょう」
「妻でございます」
「それから」
「赤子が、泣き出しました」
イネの視線が、隅に座る母親へと移った。
顔色は蝋のように白く、唇はかさかさに乾き、膝の上に置かれた手は、絶え間なく小刻みに震えている。それは、単なる恐怖のあらわれとは、どこか質の違うものであった。
イネの目の色が、ふと変わった。医者の目である。
「奥様」
低く、しかし有無を言わせぬ声で、イネは尋ねた。
「このところ、よくお休みになれておいでですか」
母親は、しばし答えに詰まってから、消え入るように呟いた。
「……ほとんど、眠れておりません」
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第四章 母親の異変
イネは母親のそばに膝を進め、その手首をそっと取った。脈は、驚くほど速い。
続いて、顔を近づけ、瞳の様子をうかがう。
「目が……落ち着いておられません」
主人が不安げに問う。
「病、なのでございましょうか」
イネはすぐには答えなかった。かわりに、母親へと視線を戻し、さらに問いを重ねる。
「奥様。夜、人形の笑い声を耳にされる、その直前に――何か、音をお聞きになりませんでしたか」
母親は身を縮こまらせながら、答えた。
「……赤子の、泣く声が」
「その、さらに前には」
「耳の奥で……なにか、耳鳴りのようなものが……」
イネは、しばし目を閉じた。そして、静かに、だがはっきりと告げた。
「人形は、笑ってなどおりませぬ」
一同が息を呑む。
「奥様の耳が、そのように、聞かせているのでございます」
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第五章 医学が迷信を破る
母親は、赤子を産んでこのかた、ろくに眠る間もなかった。
夜通しの乳やり。泣けばあやし、昼は家事に追われ、食事さえ満足に喉を通らぬ日が続いていたという。
そうした極度の疲労と睡眠の欠如が積み重なった果てに、人の耳は、時として在りもせぬ音を拾うようになる。それは幻でも、狂気でもない。ただ、追い詰められた身体が発する、悲鳴に似た信号なのだと、イネは静かに語った。
しかし――謎は、まだひとつ残されていた。
「では、人形が動くのは、なぜだ」
主人が声を荒げる。
「あれは、この目で、たしかに見た!」
イネは膝を進め、人形の底をあらためた。指先で埃を払い、目を凝らす。
そして――気づいた。
「この人形……」
「底に、小さな車輪が仕込んでございます」
主人は、あっと息を呑んだ。
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第六章 本当に動かしたのは誰か
さらに調べてみると、その人形には、異国渡りの古い仕掛けが組み込まれていた。もとは、ねじを巻けば少しずつ歩くよう作られた玩具人形であったらしい。
そして、この家の畳敷きの床は、長年のうちにわずかに傾いていた。ほんのわずかな傾きである。だが、それだけで、誰も触れずとも、夜のあいだに人形はじわりじわりと動いていくのに十分であった。
では、あの忍び笑いの正体は――。
隣室に据えられた、古い柱時計であった。ぜんまいの緩んだその時計は、時を刻むたびにわずかな振動を発し、内部の金属部品同士が擦れ合って、あたかも女の忍び笑いにも似た、かすかな音を立てていたのである。
「人形が笑った」のではない。
「人形が歩いた」のでもない。
偶然と、偶然と、また偶然。それらが重なり合い、疲れ果てた人々の心が、それを「怪異」と名づけてしまっただけのことであった。
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第七章 最後の謎
だが、イネの表情は、まだ晴れていなかった。
母親の様子だけは、単なる疲労として片付けてよいものか、どうにも腑に落ちぬものがあったのである。
「この方の御様子は、ただの寝不足では説明のつかぬものと存じます」
福沢がかたわらから問う。
「では、何だと」
イネは静かに語り始めた。
「産後の身体には、大きな変化が訪れます。それに加えて、睡眠の不足。そして――誰にも打ち明けられぬ、強い不安」
「それらが重なりますと、心と身体の双方に、乱れが生じることがございます」
母親の目から、堰を切ったように涙があふれた。
「わたくしは……おかしくなってしまったのでしょうか」
イネは、その手をそっと取り、静かに首を振った。
「いいえ」
「あなたは、ただ、頑張りすぎられただけなのです」
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第八章 未来へ
数日の後。
母親には十分な休養が与えられ、家中の者たちが赤子の世話を分かち合うようになった。眠れる夜を取り戻すにつれて、母親の顔にも、少しずつ、もとの穏やかさが戻ってきた。
夕暮れどき。
福沢とイネは、連れ立って町を歩いていた。茜色に染まった空の下、行き交う人々の影が長く伸びている。
「人は、わからぬものを恐れるものですね」
福沢が、ぽつりと言った。
イネは頷く。
「だからこそ、医学は、その恐怖の正体を確かめねばなりませぬ」
福沢は、ふっと笑った。
「教育も、同じことです」
「知らぬことを、知る。それだけで、人は少しばかり、自由になれる」
イネの口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。
「そして……」
「子を育てるのは、母親ひとりの務めではございません」
福沢は、静かに、深く頷いた。
「まったく、その通りです」
二人の行く手を、母親と赤子が歩いていく。夕焼けに包まれたその後ろ姿は、どこまでも穏やかであった。
不意に、赤子の声が響いた。
「オギャ……」
福沢が振り返る。
「――今度のは、正真正銘、本物の笑い声のようですね」
イネは、静かに微笑んだ。
「ええ」
二人はそのまま、茜色に染まる明治の町を、いつまでも歩いていった。
――了――



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