はじめに
戦国時代、あの織田信長の軍勢を相手に、まさかの大敗を喫させた武将がいたことをご存知でしょうか。その名は赤井直正(あかい・なおまさ)。丹波国(現在の兵庫県丹波市)の黒井城を拠点に勢力を広げ、後世「丹波の赤鬼」と呼ばれた戦国武将です。
信長配下の名将・明智光秀を一度は撤退にまで追い込んだその戦いぶりは、丹波の戦国史における屈指の名場面として今も語り継がれています。この記事では、赤井直正がどのようにして頭角を現し、なぜ「赤鬼」と恐れられ、そしてどのような最期を迎えたのかを、時系列で振り返っていきます。

黒井城入城――丹波での台頭
赤井直正の出生年は、はっきりとはわかっていません。赤井氏・荻野氏の一族として丹波に根を張っていた彼が歴史の表舞台に姿を現すのは、1554年(天文23年)のことです。この年、直正は荻野秋清を倒して黒井城に入城し、以後この城を本拠地として勢力を拡大していきます。
黒井城は、現在の兵庫県丹波市春日町黒井にある、標高約356メートルの猪ノ口山に築かれた山城です。険しい地形を活かした堅固な城として知られ、後に直正の重要な防衛拠点となります。
内藤宗勝を討つ――丹波奥郡の盟主へ
直正の名を丹波中に轟かせる決定的な出来事が、1565年(永禄8年)に起こります。当時、丹波で大きな勢力を誇っていた内藤宗勝(もとの名は松永長頼。三好長慶の重臣・松永久秀の弟にあたる人物です)と、直正が激突したのです。
同年8月2日、両者は戦場でぶつかり、内藤宗勝は赤井直正に敗れて討死しました。この勝利によって、直正は丹波奥郡における盟主的な存在へと一気に上り詰めることになります。兵庫県立歴史博物館の資料でも、この戦いが直正の勢力拡大における大きな転機であったことが示されています。
その後、1570年(元亀元年)には織田信長から丹波奥三郡の支配を認められますが、やがて直正は織田政権と対立していくことになります。
明智光秀、丹波へ――黒井城包囲
1575年(天正3年)、織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じます。光秀は丹波へと進軍し、赤井直正の本拠である黒井城を攻撃対象としました。同年11月ごろには、光秀は付城を築いて黒井城を包囲し、兵糧攻めによって直正を追い詰めようとします。
このとき、丹波・八上城の城主であった波多野秀治も、一時的に光秀方として黒井城包囲に加わっていました。波多野秀治は、かつて父とともに城を追われ約10年もの流浪生活を送った末に城を奪回した経歴を持つ武将で、この時点では織田方に従う姿勢を見せていました。
1576年、まさかの大逆転――黒井城の戦い
しかし翌1576年(天正4年)1月、光秀軍に衝撃が走ります。光秀に従っていたはずの波多野秀治が、突如として赤井方へと寝返ったのです。これにより、他の丹波国衆の一部も赤井方へと転じました。
黒井城を包囲していた光秀軍は、内側の赤井勢と外側から加わった波多野勢とに挟み撃ちにされる形となり、総崩れとなって大敗を喫します。光秀はやむなく丹波から撤退し、近江の坂本まで退却しました。
この鮮やかな逆転劇は、後世「呼び込み軍法」として語り継がれることになります。織田軍随一の知将とされた光秀を退けたこの一戦こそが、直正が「丹波の赤鬼」と恐れられる所以となったのです。
病に倒れる――直正の死とその後
黒井城の戦いの後も、直正は丹波における反織田勢力の中心人物であり続けました。武田勝頼や毛利氏、石山本願寺といった反信長勢力とも連絡を取り合っていたとされています。
しかし、その勢いも長くは続きませんでした。1578年(天正6年)3月、赤井直正は病により世を去ります。直正の死後は、甥の赤井忠家が赤井氏を率いることになりました。
当主を失った赤井氏の勢力は、この後急速に弱体化していきます。同じころ、光秀は波多野秀治の本拠・八上城への攻撃も本格化させ、長期の籠城戦の末、1579年(天正7年)5月末ごろに波多野秀治・秀尚兄弟は降伏。二人はその後安土へ送られ、信長の命により処刑されています。
そして直正の死からわずか1年余り後の1579年8月、ついに黒井城も落城し、明智光秀による丹波攻略は完了することになります。
もし直正が長く生きていたら
黒井城の戦いで見せた鮮やかな采配は、光秀ほどの武将をも撤退に追い込むものでした。もし赤井直正があのまま病に倒れることなく、あと数年でも長く生きていたら――丹波の歴史、ひいては織田政権による中国方面への進出の流れも、少し違ったものになっていたかもしれません。
赤井直正 年表まとめ
| 年 | 出来事 |
| ?〜1554年 | 赤井氏・荻野氏の一族として丹波で勢力を持つ(出生年不詳) |
| 1554年(天文23年) | 荻野秋清を倒し黒井城に入城 |
| 1565年(永禄8年) | 内藤宗勝を討ち、丹波奥郡の盟主的存在に |
| 1570年(元亀元年) | 信長より丹波奥三郡の支配を認められるも、後に対立 |
| 1575年(天正3年) | 信長、光秀に丹波攻略を命令。黒井城が包囲される |
| 1576年(天正4年)1月 | 黒井城の戦い。波多野秀治の寝返りで光秀軍大敗 |
| 1578年(天正6年)3月 | 赤井直正、病死 |
| 1579年(天正7年)8月 | 黒井城落城、赤井氏滅亡 |
赤井直正のポイント
- 丹波・黒井城を本拠とした戦国武将
- 1565年、内藤宗勝を討ち丹波奥郡に覇を唱える
- 1576年、黒井城の戦いで明智光秀軍を撃退
- 織田政権に最後まで抵抗を続けた
- 1578年に病死。翌年黒井城は落城
- 後世、「丹波の赤鬼」として語り継がれる
主な出典
- 丹波市「黒井城跡・赤井直正」
- 兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」



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