戦国時代には、数え切れないほどの武将がいました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
そして彼らの天下取りを支えた、名も知られざる家臣たち。
その中でも、ひときわ長く徳川家康を支え続けた男がいます。
その名は――
榊原康政(さかきばら やすまさ)。

本多忠勝、井伊直政、酒井忠次と並び、後世に「徳川四天王」と呼ばれた猛将です。
しかし康政の魅力は、単なる「戦上手」ではありません。
少年時代から家康に仕え、戦場では先陣を駆け、豊臣秀吉には堂々と反発。
それでいて、最後には10万石の大名となり、領国を治めました。
さらに関ヶ原の後には、家康と秀忠の間を取り持ったとも伝えられています。
今回は、そんな榊原康政の波乱に満ちた生涯を追ってみましょう。
13歳で家康に仕えた少年
榊原康政が生まれたのは、1548年(天文17年)。
三河国上野郷の榊原家に生まれました。
幼名は「小平太」。
康政の人生が大きく動き始めるのは、13歳のころです。
この頃、徳川家康はまだ「松平元康」と名乗っていました。
康政は元康に仕え、小姓となります。
つまり康政は、まだ少年のうちから家康のすぐそばにいたのです。
ここが康政の生涯を理解するうえで重要なポイントです。
家康がまだ天下人になる前。
三河の一大名にすぎなかった時代から、康政はその姿を見ていたのです。
家康が苦しいときも、勝利したときも、そのすぐそばにいた。
まさに「家康とともに成長した武将」でした。
初陣は16歳――三河一向一揆
1563年。
三河で大きな内乱が起こります。
三河一向一揆です。
家康にとっては、家臣や領民まで敵味方に分かれる非常に厳しい戦いでした。
この戦いで康政は初陣を経験します。
まだ16歳。
そして戦功を挙げた康政は、家康から「康」の一字を与えられたと伝えられています。
こうして「小平太」は、
榊原康政
となりました。
若武者・康政の戦国人生が、本格的に始まった瞬間です。
姉川、三方ヶ原、長篠――徳川の激戦を駆け抜ける
康政はその後、徳川家康の主要な戦いに次々と参加します。
1570年、姉川の戦い。
1572年、三方ヶ原の戦い。
1575年、長篠の戦い。
どれも戦国史を代表する戦いです。
特に三方ヶ原では、徳川軍は武田信玄の軍勢に大敗。
家康自身が命からがら浜松城へ逃げ帰るほどの惨敗でした。
しかし、こうした苦しい戦場を経験したことが、康政をさらに鍛えていきます。
徳川家臣団の中で康政は、次第に重要な武将へと成長していきました。
豊臣秀吉を怒らせた男
康政の人生で、とりわけ有名なのが、
小牧・長久手の戦い
です。
1584年。
織田信長亡き後、天下の主導権を握ろうとする豊臣秀吉と、徳川家康が激突しました。
この戦いで康政は徳川軍の中心的な武将として活躍します。
そして、もう一つ康政を有名にしたものがあります。
それが、豊臣秀吉を批判する檄文です。
康政は秀吉の行動を厳しく批判したと伝えられています。
秀吉からすれば、
「徳川の一臣下が、天下人になろうとしている俺を批判するのか!」
という話です。
康政は、かなり気骨のある男だったのでしょう。
しかし、ここが康政の面白いところです。
後に時代は大きく変わります。
家康と秀吉の力関係も変化していく。
康政自身も、秀吉の政治的な力を無視できなくなっていきます。
戦国武将にとって、「武勇」だけでは生き残れない時代になっていたのです。
秀吉から官位を受ける
1586年。
家康が豊臣秀吉に臣従すると、康政も上洛します。
ここで康政は、豊臣政権のもとで官位を受けました。
かつて秀吉を批判した康政も、現実の政治の中では秀吉との関係を受け入れていくことになります。
戦国武将とは、ただ意地を貫けばいいわけではありません。
主君を守りながら、時代の変化にも対応しなければならない。
康政は、その難しい立場を生き抜きました。
1590年――ついに10万石の大名へ
そして康政の人生に、大きな転機が訪れます。
1590年。
豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされます。
その後、徳川家康は東海地方から関東へ移されました。
このとき康政に与えられたのが、
上野国館林10万石。
ついに康政は、大名となったのです。
少年時代から家康に仕えた一人の小姓が、
10万石を領する大名
へと出世した瞬間でした。
しかし、ここから康政の仕事は「戦うこと」だけではありません。
領地を治め、城下町を整え、家臣や領民をまとめなければなりません。
戦場で槍を振るう能力と、領国を経営する能力。
大名には、その両方が求められました。
関ヶ原――秀忠軍とともに上田へ
1600年。
日本史を変える大戦、
関ヶ原の戦い
が起こります。
康政は徳川秀忠軍に従いました。
秀忠軍は中山道を進み、信濃へ入ります。
そして立ちはだかったのが、
真田昌幸・幸村父子が守る上田城
でした。
秀忠は上田城を攻撃します。
ところが真田軍の抵抗は激しく、徳川軍は思うように進めません。
その結果――
秀忠軍は関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。
徳川家康にとっては、大きな問題です。
康政は家康と秀忠の間を取り持った?
関ヶ原後、家康は秀忠に厳しい態度を取ったと伝えられています。
そこで康政が、家康と秀忠の間を取り持ったという逸話があります。
康政は、
「秀忠様だけの責任ではありません」
と、秀忠をかばったとされます。
ただし、ここは注意が必要です。
康政が実際にどのような言葉を家康に述べたのかについては、後世の逸話も含まれており、すべてを史実として断定することはできません。
しかし、康政が秀忠を支える立場にあったことは重要です。
そして、このエピソードから見えてくるのは、康政が単なる猛将ではなかったということです。
家康に対しても、必要なときには意見を述べる。
それが康政という男でした。
家康とともに歩いた59年
関ヶ原の戦いから6年後。
1606年。
榊原康政は館林城で亡くなります。
享年59。
家康より先に、この世を去りました。
13歳で家康に仕えた少年は、
三河一向一揆、
姉川、
三方ヶ原、
長篠、
小牧・長久手、
小田原征伐、
関ヶ原――
数々の戦場を駆け抜けました。
そして最後には10万石の大名となりました。
その人生は、まさに徳川家康の人生と重なっています。
榊原康政は「徳川四天王」の中でも異色の存在
徳川四天王といえば、
酒井忠次
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
の4人。
本多忠勝は「天下無双の猛将」として知られ、
井伊直政は「赤備え」で恐れられました。
では康政は?
康政には、武勇だけではない魅力があります。
若くして家康に仕え、
戦場では勇猛に戦い、
秀吉には堂々と物申し、
大名となれば領国を治め、
そして時には人と人との間に立った。
つまり、
「戦える政治家」
とも言える武将だったのです。
まとめ――家康とともに生きた男
榊原康政の人生を一言で表すなら、
「家康の天下取りを、少年時代から支え続けた男」
でしょう。
家康がまだ無名だった少年時代から仕え、
家康が三河を統一し、
織田信長と同盟を結び、
豊臣秀吉と戦い、
そしてついに江戸幕府を開く。
その長い道のりを、康政は徳川家臣として歩き続けました。
戦国時代には、主君を何度も変える武将も珍しくありませんでした。
そんな中、康政は人生のほとんどを家康とともに生きました。
だからこそ、榊原康政は単なる「徳川四天王の一人」ではありません。
家康が天下人になるまで、その背中を追い続けた忠臣。
それが榊原康政だったのです。
榊原康政・略年表
1548年 榊原康政、三河国に生まれる
1560年 13歳ごろ、徳川家康に仕える
1563年 三河一向一揆で初陣
1564年 吉田城攻め
1570年 姉川の戦い
1572年 三方ヶ原の戦い
1575年 長篠の戦い
1581年 高天神城攻め
1584年 小牧・長久手の戦い
1586年 豊臣秀吉から官位を受ける
1590年 小田原征伐後、館林10万石
1599年 宇喜多騒動の調停に関わる
1600年 関ヶ原の戦い。秀忠軍に従う
1603年 江戸幕府成立
1606年 館林城で死去。享年59
参考資料
・館林市「榊原康政」関連資料
・愛知県「あいち歴史観光」徳川家康関連資料
・『寛政重修諸家譜』
・『徳川実紀』
・国史大辞典「榊原康政」
・日本大百科全書「榊原康政」
※康政の生涯には、同時代史料で確認できる事実と、後世に成立した逸話が混在しています。本記事では、特に有名な逸話については断定を避け、史実と伝承を区別して記述しています。


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