京極高次

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歴史の皮肉というべきか、あるいは乱世の知恵というべきであろう。

京極高次という男は、佐々木源氏の流れを汲む名門の御曹司でありながら、同時代の人々から「蛍大名」などと陰口を叩かれた。蛍は己の力で光るのではない、尻(女)の威光で光るのだ、という露骨な揶揄である。

高次の前半生は、名門ゆえの零落と不運の連続であった。かつて北近江の覇者であった京極家は、家臣筋である浅井氏の下克上にあって凋落し、高次自身も本能寺の変において明智光秀に味方するという致命的な踏み絵を踏んでしまう。逃亡と潜伏の果て、この若者を救い上げたのは、妹の竜子(松の丸殿)であった。絶世の美女と謳われた竜子が豊臣秀吉の側室となり、その寵愛を受けることで、高次はようやく大名としての復権を果たすのである。

さらに秀吉の差配によって、高次は浅井三姉妹の次女・初を正室に迎えた。これによって、義姉に淀殿、義妹に徳川秀忠の正室・江を持つこととなり、高次の立場は豊臣と徳川という両巨大権力の中枢に蜘蛛の巣のように張り巡らされた。

(女たちの縁によって生き長らえている)

世人の嘲笑を、高次はおそらく痛切に自覚していただろう。だが、この男の真骨頂は関ヶ原の折、慶長五年九月の大津城で見せた奇妙なまでの頑業にあった。

西軍に与すると見せかけながら突如として徳川方に旗幟を鮮明にし、居城大津城に籠もったのである。毛利元康、立花宗茂といった西軍の精鋭一万五千が高次の大津城に殺到した。高次勢はわずか三千。猛攻に晒されながらも徹底抗戦を続け、ついに本戦当日の九月十五日に城を明け渡して高野山へと退いた。

城は落ちた。しかし、立花宗茂らの大軍を関ヶ原の主戦場から完全に引き離し、天下分け目の合戦を東軍の圧勝で終わらせる決定的な楔となったのである。家康はこの働きを激賞し、高次は若狭一国八万五千石の領主へと押し上げられた。

女の威光を借りて生き延びた軟弱者と見るか、あるいは名門の血脈を断絶させまいと冷徹に時流を読み切った現実主義者と見るか。戦国という巨大な濁流を、ある意味でもっともしなやかに泳ぎ切った男であったことは間違いない。

③ 1587年――「お初」と結婚

高次の人生を大きく変えたのが、初(お初)との結婚です。

お初は浅井長政とお市の方の娘。

つまり、

  • 姉 → 淀殿
  • 本人 → お初(常高院)
  • 妹 → 江(崇源院)

という「浅井三姉妹」の次女です。

この結婚によって、高次は豊臣家・徳川家双方につながる非常に重要な家系と結びつきます。 

④ 1600年――「関ヶ原の裏MVP」

高次を語るうえで最大の見せ場です。

大津城籠城。

西軍の大軍を大津城に引きつけ、結果として関ヶ原方面への西軍の動きを妨げました。

大津城自体は開城しますが、家康側からはその働きが高く評価されます。 

そして――

若狭8万5千石。

高次は一気に大名として大きく飛躍します。

⑤ 1601~1609年――小浜の町をつくる

関ヶ原後の高次は、単なる戦国武将ではありません。

小浜城の築城

城下町の整備

に取り組みます。

1601年に築城を始め、1607年には小浜の町割りが行われました。 

そして1609年、高次は47歳で亡くなります。

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「負けるたびに消えかけ、最後には大名として復活した男」

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