裏表(うらおもて) 背負い投げの同心

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第一話「口入れ屋の失せ物」

一

神田の外れ、大川端に近い一角に、居酒屋「おきん」はあった。

暖簾をくぐれば、煮しめた大根の匂いと、醤油の焦げる香ばしい匂いが鼻をつく。土間に並べた床几には、仕事終わりの職人や棒手振りが肩を寄せ合い、湯気の立つ土鍋を突きながら安酒をあおっている。

店を切り盛りするのは、この店の名の由来でもある看板娘、おきん。愛想はいいが口も達者で、酔っ払いの一人や二人、軽くあしらうくらいはお手のものだった。

「おう、いらっしゃい……って、あんたか」

暖簾をふらりとくぐってきた男を見て、おきんは呆れたような笑みを浮かべた。神谷一之進である。北町奉行所の同心と名乗ってはいるが、剣術の達人らしい鍛えた体つきの割には、いつもどこか気の抜けた顔つきで、この店に暇さえあれば入り浸っている。

「今日もオカラかい」

「うむ。ここのオカラに勝るものはこの江戸におらぬ」

一之進は真顔でそう言うと、床几にどっかりと腰を下ろした。同心という身分にしては、注文するのはいつも一膳飯屋でも出すような、卯の花(おから)の炒り煮ばかり。安い、腹に溜まる、そして案外滋養があるというので、実のところ長屋暮らしの町人にはありがたい一品だが、それを侍が好んで食うというのは、いささか妙な取り合わせだった。

「侍様なんだから、もっと気張ったもの頼みなよ。ぶりの照り焼きとか」

「オカラでよい。銭の使い道は、他にある」

一之進はそう言って、懐からちゃりんと小銭を出す。おきんはそれ以上追及せず、湯気の立つ小鉢を彼の前に置いた。

二

その静かな夕刻を破ったのは、店の隅で飲んでいた大男だった。

「てめえ、酒が薄いって言ってんだろうが!」

近くの普請場で人足をしているという、六尺近い偉丈夫。名を熊吉というその男は、すでにしたたか酔っていた。膳をひっくり返し、そばにいた別の客の胸ぐらを掴み上げる。

「ちょ、ちょっと熊さん、やめとくれよ!」

おきんが叫ぶが、熊吉の力は並の男では到底止められない。店の亭主も、他の客たちも、遠巻きに見ているだけで手を出せずにいた。

「おいおい、穏やかではないな」

呟きながら、一之進はオカラの小鉢を惜しそうに脇へ置き、ゆっくりと立ち上がった。熊吉が振り向きざま、丸太のような腕を一之進めがけて振り下ろす。

次の瞬間だった。

一之進の体がふわりと沈んだかと思うと、熊吉の巨体が宙に浮き、そのまま土間の上に見事な弧を描いて叩きつけられた。背負い投げである。埃が舞い、店中が一瞬しんと静まり返った。

熊吉は目を白黒させながら、しばらく起き上がれずにいた。一之進は何事もなかったかのように、床几に座り直し、小鉢を引き寄せる。

「オカラが冷めてしまうではないか」

「……あんた、ただの同心さんじゃないよねえ」

おきんがまじまじと一之進を見つめた。彼はそれには答えず、ただ黙々と箸を動かし続けるばかりだった。

土間では、正気に戻った熊吉が「す、すいやせんでした……」と平謝りしながら、這うように逃げていく。店の亭主が慌てて後片付けを始め、客たちの間からはやんやの喝采と、どよめきが起こった。

「いやあ、同心の旦那、大したもんだ!」

「見た目によらねえなあ!」

囃し立てる客たちをよそに、一之進はただ、卯の花を口に運びながら、涼しい顔をしていた。おきんだけが、その飄々とした顔の奥に、何か底知れぬものを感じ取ったように、じっと彼を見つめていた。

三

騒ぎが収まって数日後のこと。おきんの店の常連でもある口入れ屋「升田屋」の主人、徳兵衛が、自宅の座敷で死体となって見つかった。

「酒に酔って、行灯を倒して火傷したあげく、心の臓が止まったんだろう」

検分に来た番屋の者は、そう軽く片付けた。座敷には割れた徳利が転がり、酒の匂いが濃く残っていたという。

だが、この話を聞いたおきんは、腕を組んで首をひねった。

「おかしいよ、それ。徳兵衛さん、うちにも何度も来てたけど、あの人は生まれついての下戸だもの。猪口一杯で真っ赤になって、頭が痛いって帰っちまうくらいの人だよ。そんな人が、一人で徳利を空にするまで飲むなんて、あるかい?」

ちょうど店に顔を出していた一之進は、オカラの小鉢を置いたまま、ふむ、と目を細めた。

「……それは、聞き捨てならぬな」

翌日、一之進は同心として、升田屋の検分に正式に赴くことになった。

四

升田屋の座敷は、片付けられてはいたものの、まだ焦げた畳の匂いが残っていた。一之進は同心らしく、周囲の者に二言三言尋ねた後、部屋の隅々に目を走らせた。

――割れた徳利。その欠片を拾い上げ、鼻先に近づける。酒の匂いは確かにするが、それにしては徳利の底に沈んだ澱(おり)の量が少なすぎる。丸一本を飲み干した者の徳利にしては、いささか不自然だった。

――行灯の油。燃え広がった跡から逆算すると、行灯が倒れたのは、酒に酔って歩き回った末というより、むしろその場に人がしばらく座り込んでいたことを示す焦げ方をしていた。

――そして、徳兵衛の帳場から見つかった、奉公人の斡旋を記した控え帳。ここ半年ほど、升田屋が江戸のさる大名家の中屋敷へ、幾人もの奉公人を送り込んでいる記録があった。その中の一人の名の上に、朱で小さく点が打たれている。まるで、誰かに目印をつけるかのように。

一之進の目の色が、わずかに変わった。表向きの同心としての詮索は、ここまでにしておくべきだろう。だが裏では――この控え帳に記された藩の名を、彼はすでに、別の筋から探っていたところだった。

「旦那、何か分かったのかい」

おきんが、心配そうに顔を覗き込んでくる。一之進は控え帳をそっと懐にしまい、いつもの飄々とした顔に戻って言った。

「……いや、まだ何とも。オカラでも食いに戻るか」

おきんは、その返事のはぐらかし方に、何か引っかかるものを感じながらも、それ以上は問わずに頷いた。

五

その夜、一之進は同心の羽織を脱ぎ、黒装束に身を包んで、升田屋の裏口に忍び込んだ。控え帳に朱点のついていた男の名は、弥太郎。元は博打で身を持ち崩した無宿者だったが、徳兵衛の口利きで、さる大名家の江戸中屋敷に奉公人として送り込まれていた。

奉公人名簿を検めると、弥太郎が運び入れたのは、屋敷の修繕用の材木だという名目の荷であった。だが一之進が公儀より内々に探っていたのは、この藩が禁じられた数の鉄砲を、密かに買い集めているという噂。材木に紛れて運び込まれるものが、果たして本当にただの木材か――そこに、探索の的があった。

升田屋の帳場の奥、隠し戸の向こうから、一之進は焦げた反故紙の束を見つけた。灰の中に、辛うじて読み取れる文字――「玉薬(火薬)」「三十挺」という墨の跡が残っていた。徳兵衛は、自らが仲介した奉公人斡旋の裏で、屋敷に運び込まれているものの正体に気づき、恐れをなして誰かに詰め寄ったのだろう。

その「誰か」が、口を封じるために動いた。

六

「――そこで何をしている」

低い声とともに、闇の中から一之進めがけて刃が振り下ろされた。中屋敷の用人配下と思しき男、**帯刀(たてわき)**である。一之進は身をひるがえしてこれをかわし、刀を抜くことなく、相手の懐に飛び込んだ。

「表向きは同心、され度、貴様の正体、とうに知れておる。公儀の犬めが」

「犬とは異なことを申す。ただの、オカラ好きの同心でござるよ」

軽口とともに、一之進の体がふわりと沈む。次の瞬間、帯刀の巨体は宙を舞い、升田屋の土間に叩きつけられていた。二度目の背負い投げである。当て身を一つ入れると、帯刀はそのまま気を失った。

翌朝、番屋に突き出された帯刀の白状により、事の次第が明らかになる。藩が禁を破って買い集めていた鉄砲玉薬の運び入れに升田屋が使われ、それに気づいた徳兵衛の口を封じるため、帯刀が酒に薬を混ぜて無理に飲ませ、事故と見せかけて始末したのだった。

七

「――ってことは、旦那、最初からずっと、その辺の裏側を探ってたってわけかい」

事件が一段落した後の店先、おきんは腕を組んで一之進をじろりと睨んだ。一之進は素知らぬ顔で、オカラの小鉢を引き寄せる。

「さて、な。それがしはただの、市井の些事を扱う同心よ」

「怪しいったらありゃしない。この間の背負い投げといい、今度のことといい……只者じゃないのは、もうバレバレなんだけど」

「オカラが美味い店があると聞けば、ただそれだけで参るような、暇な男でござるよ」

一之進はそう言って、涼しい顔で箸を進める。おきんは呆れたようにため息をつきつつも、どこか憎めない様子で、彼の隣に腰を下ろした。

事件の裏にあった藩の思惑――禁制の武具の密輸――は、まだその全貌を現してはいない。一之進の探索は、これからも続くのだろう。おきんがそのことに気づく日は、そう遠くないのかもしれない。

(第一話・了)

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