『弁慶と黒犬丸、荒くれ街道を征く』

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小説『弁慶と黒犬丸、荒くれ街道を征く』

時代

治承年間(1177~1181年)ごろ

※弁慶の正確な生年は不詳です。本作では、源義経と出会う前の若き弁慶が諸国を旅していた時期として描きます。

場所

近江国・琵琶湖東岸の街道沿い

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一 嵐の前

治承年間。

京の都を離れた一人の荒法師が、近江国の街道を歩いていた。

名は――

武蔵坊弁慶。

まだ源義経とは出会っていない。

比叡山を離れ、諸国を渡り歩きながら、托鉢をし、時には用心棒のような仕事を引き受け、弱い者が悪党に苦しめられていれば、その力を振るっていた。

その弁慶の後ろを、いつも一匹の黒犬がついてくる。

名は――

黒犬丸。

全身を覆う毛は艶のある黒。

体つきは大きく、足は太い。

だが何より目を引くのは、その眼だった。

鋭く、静かで、まるで人間の言葉を理解しているかのような目。

この犬は、もともと弁慶のものではなかった。

以前、托鉢をしていた弁慶に、一人の旅人が握り飯を分けてくれたことがあった。

旅人は笑って言った。

「坊さま、腹が減っておるなら、これを食べなされ」

その男の傍らには、一匹の黒犬がいた。

弁慶は、その握り飯の恩を忘れなかった。

だが数日後――

その旅人は、街道で悪党どもに襲われ、命を奪われた。

弁慶は怒り、男を殺した悪党を追った。

そして――

その仇を討った。

すべてが終わったあと、残された黒犬だけが、男の亡骸のそばを離れなかった。

弁慶は犬の頭を撫でた。

「お前も独りか」

黒犬は黙って弁慶を見上げた。

「……ならば、しばらく俺と来るか」

それ以来。

犬は弁慶の後ろを歩くようになった。

弁慶はその犬を、

「黒犬丸」

と呼ぶようになった。

⸻

夕暮れ。

二人は近江国の小さな宿場町へ差し掛かった。

琵琶湖から吹く風が冷たい。

街道には旅人の姿がほとんどない。

店先には干し魚や薪が並んでいるものの、人の声が聞こえなかった。

戸という戸は固く閉ざされている。

中には板を打ちつけて、外から開けられないようにしている家まである。

弁慶が足を止めた。

「……妙だな」

黒犬丸も立ち止まる。

耳がぴんと立った。

弁慶は鼻を鳴らした。

「丸」

黒犬丸が振り向く。

「……血の臭いがするぞ」

黒犬丸は低く唸った。

「グルルル……」

弁慶の顔から笑みが消えた。

⸻

二 荒くれ武者ども

街道を外れたところに、一軒の古びた旅籠があった。

他の家々と違い、そこだけ灯りが煌々とついている。

中からは酒盛りの声が聞こえる。

「わっはっはっ!」

「もっと酒を持ってこい!」

「つまみが足りぬぞ!」

弁慶は旅籠の壁際に身を寄せ、中を覗いた。

そこには――

十人余りの男たちがいた。

皆、刀や槍を持っている。

鎧は古び、袖は擦り切れている。

だが、どの男も武士の格好をしていた。

その中央に座るのは、一際大柄な男。

赤ら顔。

太い眉。

頬には刀傷。

腰には大太刀を差している。

男の名は――

鬼頭九郎兵衛。

かつては名のある武家に仕えていた侍だった。

しかし主家の没落によって仕官先を失い、その後、仲間たちと徒党を組んで街道を荒らすようになった。

最初は旅人から金を奪うだけだった。

やがて――

村から米を取り上げるようになった。

そして今では、

「年貢を出せ」

と称して、村人から勝手に米や金を取り立てている。

弁慶が旅籠の奥を見る。

そこには縄で縛られた村人たちがいた。

若者。

老人。

そして――

十代半ばほどの少女。

少女の頬には赤い腫れがあった。

九郎兵衛が笑う。

「次に米を出し惜しみする家があれば、家ごと焼くぞ!」

村の老人が震えながら答える。

「どうか……もう勘弁してくだされ」

「黙れ!」

九郎兵衛が老人を蹴飛ばす。

「この街道は俺様の縄張りだ!」

男たちが笑う。

「鬼頭の九郎兵衛様に逆らう奴など、この辺りにはおらん!」

「そうとも!」

「村人どもは黙って米を出せばいいんだ!」

弁慶は無言で見つめていた。

その手が――

ゆっくりと薙刀へ伸びる。

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三 弁慶、怒る

黒犬丸が弁慶を見上げる。

弁慶は低い声で言った。

「丸」

黒犬丸の耳が動く。

「ここは、俺が行く」

黒犬丸は動かない。

「お前は後ろにおれ」

それでも黒犬丸は弁慶の足元から離れなかった。

弁慶が苦笑する。

「……仕方のない奴だ」

そして――

旅籠の戸の前に立つ。

ドン!

弁慶の大きな手が戸を叩いた。

中の男たちが振り向く。

「誰だ!」

返事はない。

もう一度。

ドンッ!

今度は戸が大きく震えた。

九郎兵衛が立ち上がる。

「何者だ!」

弁慶が低く言った。

「弱き者から米を奪い、女子供に手を上げる――」

一瞬の静寂。

そして――

弁慶が戸を蹴破った。

バァン!

「それでも侍のつもりか!」

旅籠の中に、弁慶の声が響き渡った。

「この武蔵坊弁慶が、叩き直してくれる!」

男たちが一斉に刀を抜く。

「野郎!」

「たった一人だ!」

「斬り殺せ!」

弁慶は薙刀を構えた。

黒犬丸も牙をむく。

⸻

四 一騎当千の荒法師

最初の男が斬りかかった。

弁慶は薙刀の柄で刀を受け止める。

ガキィン!

そのまま腕をひねる。

「ぐあっ!」

男が吹き飛ぶ。

続いて槍が突き出される。

弁慶は身体を横にかわし、薙刀の石突で男の腹を打つ。

「ぐっ!」

男が膝をつく。

さらに後ろから刀が振り下ろされた。

その瞬間――

「丸!」

黒い影が走った。

黒犬丸だ。

「ガウッ!」

犬は男の腕に飛びついた。

「うわっ!」

刀が床に落ちる。

黒犬丸はすぐに離れ、弁慶の足元へ戻った。

弁慶が笑う。

「よくやったぞ、丸!」

黒犬丸は尻尾を一度だけ振った。

しかし――

敵はまだ八人以上いる。

男たちは恐怖を感じ始めていた。

「なんだ、この坊主……」

「刀を受けても倒れぬぞ!」

「化け物か!」

弁慶は薙刀を肩に担いだ。

「化け物ではない」

ニヤリと笑う。

「ただの腹を空かせた旅の坊主よ」

男たちの顔が引きつる。

弁慶が踏み込んだ。

ドンッ!

床板が鳴る。

薙刀が横薙ぎに振られた。

男が二人まとめて吹き飛ぶ。

酒樽が倒れ、床に酒が流れ出す。

灯明が揺れる。

旅籠の柱がミシミシと音を立てる。

黒犬丸は敵の足元を縫うように走る。

一人の男が弁慶の背後へ回ろうとすると、

「ガウッ!」

黒犬丸が飛びかかる。

男がよろめく。

そこへ弁慶の薙刀が迫る。

「ぐあっ!」

男は壁際へ吹き飛ばされた。

村人たちは恐怖のあまり、目を閉じていた。

だが――

しばらくすると、恐る恐る目を開ける。

そこには、

一人で十人余りの荒くれ武者を相手にする弁慶の姿があった。

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五 頭目・鬼頭九郎兵衛

やがて――

立っている男は一人だけになった。

鬼頭九郎兵衛。

九郎兵衛は顔を真っ赤にしながら、大太刀を抜いた。

「貴様……」

弁慶は薙刀を構える。

「名を聞こう」

「鬼頭九郎兵衛!」

「そうか」

弁慶は静かに言った。

「九郎兵衛。まだ刀を抜くか」

「俺は侍だ!」

九郎兵衛が吠える。

「武士が一度刀を抜いたなら、最後まで戦う!」

「侍……?」

弁慶の目が鋭くなる。

「ならば問おう」

一歩、前へ出る。

「侍とは、弱い者から米を奪うことか?」

九郎兵衛が黙る。

「侍とは、女子供を脅すことか?」

さらに一歩。

「侍とは――」

弁慶の声が低く響く。

「自分より弱い者を踏みつけて、生きることか!」

九郎兵衛が怒鳴る。

「黙れぇ!」

大太刀が振り下ろされる。

弁慶は薙刀で受け止めた。

ガキィィン!

二人の得物が激しくぶつかる。

九郎兵衛は力任せに押し込む。

「俺は……!」

弁慶は微動だにしない。

「俺は武士として生きてきた!」

「ならば――」

弁慶が力を込める。

「武士の誇りを思い出せ!」

ドォン!

薙刀が大太刀を弾き飛ばす。

九郎兵衛の手から刀が離れた。

その瞬間――

弁慶の薙刀の刃が、九郎兵衛の首元で止まった。

九郎兵衛は尻もちをつく。

「……ま、参った」

黒犬丸がゆっくり近づく。

九郎兵衛の目の前で立ち止まり、

「グルル……」

と唸った。

九郎兵衛の顔から血の気が引いた。

「わ、分かった……!」

弁慶は薙刀を下ろした。

「殺しはせぬ」

九郎兵衛が顔を上げる。

「だが――」

弁慶は冷たく言った。

「奪ったものは、すべて返せ」

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六 夜明けの宿場

夜が明けた。

東の空が白み始める。

旅籠の前には、村人たちが集まっていた。

米俵。

銭。

布。

食料。

荒くれ者たちが奪っていたものが、次々と運び出される。

縄を解かれた少女が、弁慶の前に立った。

「……ありがとうございました」

弁慶は頭を掻いた。

「礼などいらぬ」

少女が黒犬丸を見る。

黒犬丸は少女の手の匂いを嗅いだ。

少女は恐る恐る、その頭を撫でる。

「この犬さんも……ありがとうございました」

弁慶が笑う。

「犬さんではないぞ」

「え?」

「こいつは黒犬丸だ」

黒犬丸が、

「ワン」

と小さく鳴いた。

村人たちから笑い声が起きた。

昨夜まで怯え切っていた宿場に、久しぶりに笑顔が戻った。

村の老人が深々と頭を下げる。

「弁慶殿……せめて、飯だけでも」

弁慶の顔がぱっと明るくなった。

「飯!」

さっきまでの恐ろしい荒法師とは別人のようだった。

「それはありがたい!」

村人たちが笑う。

やがて弁慶の前には、大きな飯の椀が置かれた。

黒犬丸の前には――

骨付きの肉。

弁慶は肉を見て笑った。

「丸、お前のほうがご馳走ではないか」

黒犬丸は尻尾を振る。

「まあよい。昨夜の働きは、お前のほうが上だったからな」

弁慶が黒犬丸の頭を撫でる。

黒犬丸は嬉しそうに目を細めた。

⸻

七 再び旅へ

朝日が琵琶湖の水面を照らしていた。

弁慶は薙刀を肩に担ぐ。

黒犬丸はその隣を歩く。

村人たちが街道まで見送りに出ていた。

「弁慶殿!」

「どうかお気をつけて!」

弁慶は振り返る。

「お前たちもな!」

そして歩き出す。

しばらくして黒犬丸が立ち止まった。

弁慶も止まる。

「どうした、丸?」

黒犬丸は街道の先を見つめている。

その視線の先には――

山へ続く長い道。

そして、そのさらに先には京。

弁慶は笑った。

「まだまだ世の中には、困っている奴がいるらしい」

黒犬丸が、

「ワン」

と鳴く。

弁慶は歩き出した。

「行くぞ、丸」

黒犬丸がその後を追う。

二つの影が、朝日に長く伸びていく。

こうして――

武蔵坊弁慶と黒犬丸の荒くれ街道の旅は、まだ始まったばかりだった。

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