「幕末」と聞くと、坂本龍馬や新選組が目立ちますが、実府の中にいた「二人の天才」**が日本の運命を決定づけていたことをご存知でしょうか。
一人は、江戸を戦火から救った勝海舟。
もう一人は、幕府を世界水準の近代国家にしようと夢見た小栗忠順。
実はこの二人、1860年に同じ遣米使節団としてアメリカへ渡っているんです!しかし、二人がアメリカで見てきた景色と、その後の行動は驚くほど対照的でした。
今回は、まるで水と油のような二人、勝海舟と小栗忠順の「ライバル物語」をご紹介します!

同じ景色を見たはずなのに…二人の「アメリカ体験」

1860年、歴史的な「万延元年遣米使節団」が太平洋を渡りました。
勝海舟(咸臨丸艦長): 荒れ狂う太平洋を自力で渡り切り、サンフランシスコに到着。
小栗忠順(ポーハタン号・目付): 米艦に乗り、サンフランシスコからパナマ鉄道で東へ!首都ワシントンまで行き、大統領に謁見。
勝海舟はサンフランシスコ止まりでしたが、小栗はアメリカの心臓部であるワシントンまで到達しました。二人が見た「西洋の凄まじい技術力」は、その後の日本の進路を大きく左右することになります。
小栗の「ネジ」と、勝の「海軍」
特に有名なのが、小栗忠順の逸話です。ワシントン海軍工廠を見学した小栗は、**「これからの国造りに必要なのは力よりもシステムだ!」**と確信します。
そこで小栗が持ち帰ったのが、「たった一本のネジ」。
当時はまだネジという概念すら薄かった日本に、小栗は工業の基本となる「規格化」の重要性を持ち帰ったのです。まさに、日本の近代化の「種」を持ち帰った男と言えるでしょう。
運命の分岐点:江戸城での大激論
時は流れ、1868年。鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸へ戻り、新政府軍が東へ向かって進軍を開始しました。江戸の町が戦火に包まれるか、それとも平穏に明け渡すか。運命の評定で、二人の天才の主張は激しくぶつかり合います。
主戦論の小栗:箱根・駿河湾を舞台にした「死の罠」
小栗忠順が立案した作戦は、単なる精神論ではありませんでした。近代兵器と地理を完璧に計算に入れた、恐るべき**「絶滅作戦」**です。
1. 箱根の要塞化: 小栗は、新政府軍が必ず通過する箱根の険しい山道に、旧幕府軍の精鋭を伏兵として配置。敵を狭い街道に誘い込み、動きを完全に封じ込める作戦を立てました。
2. 艦隊による包囲殲滅: ここが小栗の真骨頂です。幕府が保有する当時の最新鋭艦隊を駿河湾から回航させ、山道で足止めされている敵軍に対し、海から艦砲射撃を浴びせます。
3. 退路の遮断: 海からの攻撃でパニックになった敵を、山と海で挟み撃ちにして、一歩も逃さず殲滅する。
この小栗の作戦は、戦術的に見れば「完璧」と言えるものでした。当時、新政府軍はまだ組織的な近代海軍を持っておらず、小栗の構想が実行されていれば、新政府軍は壊滅的な打撃を受けていた可能性が高いと多くの軍事史家が分析しています。
恭順論の勝:日本という「家」を燃やすな
一方、海軍総裁であった勝海舟は、小栗の戦術的勝利を認めながらも、**「戦略的敗北」**を確信していました。
勝は小栗を前にしてこう言い放ちます。
「その作戦なら勝てるかもしれない。しかし、戦いは長引き、江戸は灰になる。さらには、イギリスやフランスが必ず介入してくる。そうなれば、日本は国全体が外国の植民地になってしまう!」
勝海舟にとって、戦いに勝つことよりも「日本という国を独立させて存続させること」が絶対の至上命題でした。勝は小栗の「戦術」を捨て、国の未来を守るための「政治的決断」として、あえて敵である西郷隆盛との会談を選んだのです。
勝海舟VS小栗忠順
この「大激論」は、単なる意見の相違ではありません。**「目の前の敵を倒すための天才(小栗)」と、「百年先の国家を見据えた天才(勝)」**という、二つの極端なリーダーシップの衝突でした。
もし小栗の作戦が採用されていれば、維新という革命は起きず、幕府主導の近代化が進んでいたかもしれません。一方で、勝の決断がなければ、日本は内戦で疲弊し、列強の餌食になっていたかもしれません。
歴史の神様がどちらを選んだのか。それは後の私たちが知る通りですが、この日の二人の議論がなければ、今の日本の姿は全く違ったものになっていたことでしょう。


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