霧の中のバリツ
第一章 東洋の秘術
1890年、ロンドン。
濃い霧がテムズ川を覆い、街灯の光さえ霞んで見える夜。
ベーカー街221Bで、シャーロック・ホームズは珍しく新聞ではなく、一枚の広告を見つめていた。
「東洋柔術と英国護身術を融合した新武術
BARTITSU(バーティツ)」




第四章 敗北
稽古場中央。
ホームズは静かに構えた。
向かいにはバートン=ライト。
門下生たちは、この細身の紳士が何秒持つかを賭け始めている。
ホームズが口を開いた。
「先生、ひとつ質問がある。」
「何ですかな?」
「この技術は物理学なのか、それとも神秘主義なのか。」
門下生たちがざわつく。
しかしバートン=ライトは笑った。
「終わった後で答えましょう。」
次の瞬間。
ホームズが踏み込んだ。
ボクシング仕込みの鋭い一撃。
だが――
視界が回転した。
気づけば天井が見えている。
畳の上だった。
場内が静まり返る。
ホームズ自身も何が起きたのか理解できない。
ワトスンが駆け寄った。
「ホームズ!」
ホームズは起き上がる。
服についた埃を払いながら言った。
「なるほど。」
バートン=ライトが眉を上げる。
「感想は?」
ホームズは真顔だった。
「非常に不愉快です。」
門下生たちが吹き出した。
「私が何をされたのか理解できない。」
「それは褒め言葉として受け取っておきましょう。」
ホームズは珍しく笑った。
「先生。」
「はい?」
「私は今まで数百人の犯罪者を観察してきた。」
「そうでしょうな。」
「しかし今日ほど見事に騙されたことはありません。」
バートン=ライトは軽く頭を下げた。
ホームズもまた帽子を取った。
探偵が誰かに敬意を示す、珍しい瞬間だった。
「もし許されるなら。」
ホームズは言った。
「しばらく弟子になりたい。」
「理由は?」
「あなたの技術を理解したい。」
少し考えた後、
ホームズはいつもの皮肉な笑みを浮かべた。
「もっとも、理解した暁には改良点を百ほど指摘するかもしれませんが。」
道場中が笑いに包まれた。
バートン=ライトも大笑いした。
「結構です、ホームズ氏。」
「その時は私も百の反論を用意しておきましょう。」
こうして奇妙な師弟関係が始まった。
⸻
第五章 師と弟子
それから数か月。
ホームズは事件の合間を縫って道場へ通い続けた。
驚異的な速度で技を吸収したが、それでも師には勝てない。
ある日の稽古。
ホームズは三度目の投げを受け、畳へ転がった。
「先生。」
「何ですかな?」
「あなたは実に腹立たしい。」
「ほう?」
「私の推理はだいたい正しい。しかしあなたの技は正しいと分かっていても防げない。」
バートン=ライトは笑った。
「知識と体験は違います。」
ホームズは起き上がる。
「なるほど。ようやく東洋思想らしい言葉が出てきた。」
「お気に召しませんか?」
「いや。嫌いではありません。」
それはホームズ流の最大級の賛辞だった。
⸻
第六章 黒い影
その夜。
道場を出たホームズは、一人の男を見つけた。
黒いコート。
鋭い眼光。
異常な知性。
男は道場を監視していた。
ホームズは瞬時に悟る。
「ただの犯罪者ではない。」
男もまたホームズを見る。
二人の視線が交差する。
まるで剣がぶつかったようだった。
男は静かに帽子を上げた。
「初めまして、ホームズ氏。」
ホームズの顔から笑みが消える。
「教授……。」
男の名はモリアーティ。
後にロンドン最大の犯罪帝国を操る男だった。
⸻
第七章 失われた技
モリアーティもまた、密かにバーティツを調査していた。
「知性だけでは君に勝てない。」
教授は言った。
「だから武術を学ぶのか。」
「その通りだ。」
ホームズは理解した。
この男は自分と同じだ。
相手の武器を研究し、
分析し、
利用する。
まるで鏡写しだった。
だが決定的な違いがあった。
モリアーティは勝つために学ぶ。
ホームズは理解するために学ぶ。
その差は今は小さい。
しかし、いずれ運命を分けることになる。
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最終章 ライヘンバッハへの伏線
別れ際。
バートン=ライトはホームズへ一冊のノートを渡した。
そこには技ではなく言葉が記されていた。
力に逆らうな。
力を導け。
相手が強いほど、
その力は自らを滅ぼす。
ホームズは静かに頷いた。
「先生。」
「何でしょう。」
「私はまだあなたに勝てそうにありません。」
バートン=ライトは笑った。
「勝つ必要はありません。」
「それは負けている側の台詞としては慰めになりませんね。」
「では、こう言いましょう。」
師はホームズの肩を軽く叩いた。
「あなたは私に勝つためではなく、自分自身を超えるために学んでいるのです。」
珍しくホームズは反論しなかった。


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