施薬院全宗――秀吉の命を預かり、病に苦しむ人々を救った男

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僧侶から名医へ。そして天下人の側近となった、知られざる医師の生涯

豊臣秀吉の周囲には、数え切れないほどの武将がいた。

石田三成、黒田官兵衛、浅野長政、増田長盛――。

しかし、秀吉の天下を支えたのは、武将や奉行だけではない。

その中には、

「人の命を治すこと」を仕事とした男

もいた。

名を――

施薬院全宗(やくいん・ぜんそう)

という。

全宗は、もともと武士ではない。

比叡山で修行した僧侶だった。

ところが、戦国の激流の中で人生を大きく変える。

僧侶から医師へ。

そして豊臣秀吉の侍医へ。

さらに朝廷から官位を与えられ、古代以来の救療施設「施薬院」を復興する。

その生涯は、

「戦国時代の医師とは、いったい何者だったのか」

という問いを私たちに投げかけてくる。


一、丹波の医家に生まれる

施薬院全宗は、大永6年(1526)生まれとされる。

本姓は丹波氏。

丹波氏は、平安時代の名医として知られる丹波康頼につながる医家の系譜とされている。

つまり全宗は、医療とは無縁の家から突然現れた人物ではなかった。

もともと、

「医術を知る家」

の血筋だったのである。(コトバンク)

しかし、全宗の若き日の進路は、医学ではなかった。

彼が向かったのは――

比叡山だった。


二、比叡山の僧侶となる

若き全宗は出家し、比叡山で仏教を学んだ。

薬樹院に住したとも伝えられ、僧侶としての道を歩んでいた。

比叡山といえば、当時の日本における宗教・学問の一大拠点である。

僧侶たちは仏教だけを学んでいたわけではない。

漢籍を読み、歴史を学び、医学や薬学などにも接する。

全宗にとって比叡山は、後の人生を決める知識の土台となった可能性が高い。

だが――

その比叡山を、戦国の炎が襲う。


三、1571年――比叡山焼き討ち

元亀2年(1571)。

織田信長は、比叡山延暦寺を攻撃した。

いわゆる、

「比叡山焼き討ち」

である。

全宗がこの事件をどのように経験したのかについては、後世の伝承も含まれており、細部まで確実とはいえない。

しかし、全宗がその後、

僧侶の身分を離れ、医師の道へ進んだ

ことは、多くの人物辞典・医学史資料で伝えられている。(医学書院)

人生とは不思議なものだ。

寺を焼いた戦国の炎が、

一人の僧侶を別の人生へと押し出したのである。


四、僧侶から医師へ

還俗した全宗が師と仰いだのが、

曲直瀬道三(まなせ・どうさん)

だった。

道三は、戦国時代を代表する医師の一人。

日本医学史において「曲直瀬流」と呼ばれる大きな医学の流れを作った人物である。

全宗はこの道三のもとで医学を学んだ。

ここで全宗は、僧侶として身につけた知識に加えて、本格的な医術を身につけていく。

そしてやがて――

その名は京都で知られるようになっていった。


五、天下人・秀吉との出会い

全宗の人生を大きく変えた人物。

それが、

豊臣秀吉

だった。

秀吉に仕えた全宗は、侍医として重用されるようになる。

ここで重要なのは、

全宗が単なる「医者」では終わらなかった

ことである。

秀吉のような天下人にとって、医師は特別な存在だった。

身体の状態を最も近くで知ることができる。

食事、睡眠、体調。

時には家族よりも早く、主君の異変に気づく。

しかも医師は、武将のように軍勢を持たない。

だからこそ、主君の側にいることができる。

全宗はその立場から、秀吉の信頼を得ていった。

後世の資料では、全宗は秀吉の侍医としてだけでなく、側近的な立場にあった人物として紹介されることもある。(医学書院)

ただし、

「秀吉の政策を全宗が自由に動かしていた」

とまで断定するのは慎重であるべきだろう。

確実なのは、

医師という立場を超えて、豊臣政権の中で重要な存在となっていた

ということである。


六、全宗が秀吉に願ったこと

全宗の人生で、とりわけ興味深い仕事がある。

それが、

「施薬院」の復興

だった。

施薬院とは、簡単にいえば、

貧しい病人などに薬を施し、救療するための施設

である。

その歴史は古い。

奈良時代には、光明皇后が施薬院を設けたとされる。

しかし、長い年月の中で、その制度は衰退していた。

そこで全宗は秀吉に、

「この施薬院を復興したい」

と願い出る。

そして天正13年(1585)、疫病や飢饉が社会を苦しめる中、全宗による施薬・救療が行われたとされる。

さらに全宗は施薬院使に任じられ、施薬院の再興に取り組んだ。(コトバンク)

ここに、全宗という人物の本質が見えてくる。


七、「天下人の医師」から「民衆を救う医師」へ

戦国時代。

医療は、現代のように誰もが簡単に受けられるものではなかった。

薬は高価であり、医師にかかることのできる人も限られていた。

そんな時代に、

「病に苦しむ人々に薬を施す」

という仕事を公的な形で復活させようとした。

それが全宗だった。

資料によれば、全宗は百日施薬を二度行ったとされる。(コトバンク)

これは単なる医師としての名誉欲だけでは説明しにくい。

もちろん、秀吉の政治的な意図もあっただろう。

しかし全宗自身に、

「医術を人のために使う」

という強い意識があったことは想像できる。

比叡山で仏道を学び、

医師となり、

天下人の側に立った男が、

最後に力を注いだのが、

「病人を救うこと」

だったのである。


八、朝廷からも認められる

全宗の名声は、豊臣政権だけにとどまらなかった。

朝廷にも医薬を献じ、後陽成天皇の時代には、

正四位・法印

にまで昇進したとされる。

さらに昇殿も許された。

これは単なる町医者では考えられない栄誉である。(放射線医学の歴史)

僧侶として比叡山に入り、

戦乱によって還俗し、

医師となり、

秀吉の侍医となり、

施薬院を復興し、

ついには朝廷からも認められる。

一人の人間の人生として、これほど大きく姿を変えた例も珍しい。


九、秀吉の「大返し」よりも知られていない全宗の仕事

豊臣秀吉について語るとき、どうしても武将たちに目が向く。

中国大返し。

山崎の戦い。

小田原征伐。

天下統一。

朝鮮出兵。

しかし秀吉の政権を支えたのは、戦場に立つ武将だけではなかった。

医師、僧侶、商人、外交官、奉行――。

さまざまな人間が秀吉の周囲に集まっていた。

全宗もその一人だった。

しかも彼の武器は、

刀ではない。

医学と知識だった。

戦国時代には、

「人を殺す技術」

が権力を支える一方で、

「人を生かす技術」

もまた権力者から必要とされていたのである。


十、朝鮮出兵――名護屋へ

文禄元年(1592)。

秀吉は朝鮮への出兵を開始する。

全宗も秀吉に従い、肥前名護屋に赴いたことが記録されている。(八代市公式ウェブサイト)

ここでも全宗は医師として秀吉の近くにいた。

しかし、この頃になると秀吉はすでに五十代後半。

長年の戦陣と激務。

そして巨大化した政権を動かす重圧。

天下人の身体は、少しずつ老いていく。

そのそばに、

医師・全宗がいた。


十一、秀吉の死、そして全宗

慶長3年(1598)。

豊臣秀吉が死去する。

天下を取った男の最期を、全宗も見届けた。

秀吉の死によって、豊臣政権は大きな転換点を迎える。

だが全宗は、その翌年まで生きた。

そして――

慶長4年(1599)12月10日。

京都で死去。

享年は74歳とされる。

ただし、享年については69歳とする資料もあり、生年・年齢には異説がある。(医学書院)

墓は京都の十念寺にあるとされる。(放射線医学の歴史)


十二、全宗の死後も「施薬院」は残った

全宗が亡くなったあとも、

施薬院使

の職は受け継がれていった。

やがて施薬院家は、その職を世襲するようになる。

つまり全宗は、一代限りの名医ではなかった。

彼が復興した制度は、その後の医療史の中にも名前を残した。

そして江戸時代には、施薬院家が医療界の一角を担うことになる。(コトバンク)


終章――戦国を生き抜いた「医師」という武器

施薬院全宗の人生を振り返ってみよう。

1526年頃――誕生。

↓

比叡山に入り、僧侶となる。

↓

1571年――比叡山焼き討ち。

↓

還俗し、曲直瀬道三に医学を学ぶ。

↓

医師として名を上げる。

↓

豊臣秀吉に仕える。

↓

秀吉の侍医として重用される。

↓

1585年――施薬院の復興に取り組む。

↓

施薬院使となる。

↓

朝廷からも高い評価を受ける。

↓

1592年――文禄の役。秀吉に従って名護屋へ。

↓

1598年――秀吉死去。

↓

1599年――全宗死去。

こうして見ると、全宗の人生は、

「僧侶から医師へ」

というだけではない。

むしろ、

「戦乱によって人生を変えられた男が、その戦乱を生き抜くために医学を身につけ、最後にはその医学を社会のために使った人生」

だったとも言える。

彼は武将ではない。

城を落としたわけでもない。

大軍を率いたわけでもない。

それでも、

豊臣秀吉という天下人のすぐそばにいた。

そして、その立場を利用して、自分だけの栄達に終わらせず、

「病に苦しむ人に薬を与える場所」

を復活させた。

戦国時代というと、

刀を握った男たちばかりが歴史の主役になりがちだ。

しかし、戦国を生きたのは武将だけではない。

病人もいた。

医師もいた。

薬を作る者もいた。

そして、

「人を治すことで時代を動かした男」

もいた。

それが、

施薬院全宗だった。

彼の人生を知ると、

豊臣秀吉の時代が、

少し違って見えてくる。


参考資料・出典

  • 『世界大百科事典』「施薬院全宗」――生没年、丹波氏、比叡山、曲直瀬道三、秀吉との関係、施薬院復興など。(コトバンク)
  • 医学書院『医学大辞典』「施薬院全宗」――1526~1599年、曲直瀬道三に学び、秀吉の侍医・政治顧問とされる経歴。(医学書院)
  • 『日本大百科全書』「施薬院」――施薬院の歴史と、秀吉による全宗を通じた復興について。(コトバンク)
  • 『医家先哲肖像集』「施薬院全宗」――侍医、施薬院使、官位、救療活動、1599年の死去など。(放射線医学の歴史)
  • 八代市立博物館・未来の森ミュージアム資料――全宗が秀吉に近侍した医師で、文禄の役に名護屋へ従ったことなど。(八代市公式ウェブサイト)
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