第一話「似せ絵の宿」
一
東海道のとある宿場、その名も知れぬ小さな旅籠町に、遊眼(ゆうがん)が草鞋を脱いだのは、梅雨の晴れ間の昼下がりだった。
宿場は朝から騒がしい。振り分け荷物を担いだ飛脚が土埃を蹴立てて駆け抜け、馬子が「はいはい」と掛け声をかけながら荷駄馬を引く。旅籠の軒先では、呼び込みの女中が「お泊まりはいかがでございましょう」と旅人の袖を引き、団子屋の甘い匂いと、馬糞の匂いと、井戸端で誰かが炊く飯の匂いが入り混じって漂っていた。
遊眼が投宿した旅籠「鶴屋」は、間口五間ほどのさして大きくない構えだったが、土間から続く台所では竈(かまど)の煙が絶えず、女中たちが忙しく立ち働いていた。
「絵師さんかい。珍しいお客だね」
出てきた番頭は、恰幅のいい四十がらみの男だった。名を弥助という。算盤片手に帳場に座り、宿賃の勘定から旅人改めの帳面まで一手に引き受けている、鶴屋には欠かせない男らしかった。
「主人殿の還暦の祝いに、肖像を描いてほしいと文をいただいた。しばらく厄介になる」
遊眼はそれだけ言うと、矢立と丸めた画帖を懐に、案内された二階の四畳半に上がった。障子越しに西日が差し込み、畳の目に沿って長い影が伸びる。旅の垢を落とすべく、行水の盥(たらい)を頼むと、下働きの娘が井戸水を汲んできた。
「絵師さんかい。あたしは小夏。何かあったら呼んどくれ」
くるくるとよく動く目をした娘だった。かつては近くの宿場で飯盛女をしていたが、訳あって鶴屋に住み込みで働くようになったらしい。盥を置くなり、遊眼の画帖をちらりとのぞき込み、「へえ、うまいもんだね」とずけずけ言ってのける遠慮のなさに、遊眼は思わず苦笑した。
小夏はそのついでに、この妙な絵師をしげしげと眺めた。歳の頃は二十七、八か。旅慣れた地味な紺の道中着に、色褪せた三度笠を脇に置き、右の腰には矢立、左には丸めた画帖を何本も差している。日に焼けた肌に、無精髭こそないが、月代(さかやき)も伸びるに任せて頭巾で覆い、どこか浮世離れした佇まいだった。何より目つきが独特で、人の顔をまじまじと見るでもなく、かといって逸らすでもなく、常にその奥にある何かを探るような、静かな眼差しをしている。
「絵師さんって、みんなこんなに無口なのかい」
小夏がからかうように言っても、遊眼はただ小さく首を傾げるだけで、大した返事もしない。だがその沈黙は不愛想というより、頭の中で何かを描き続けているような、忙しない静けさだった。小夏はそれを、少し変わり者だが憎めない、と胸の内で決めつけた。夕刻には水はまだぬるく、蚊遣り火の煙が窓辺に漂っていた。
二
肖像画は、その日から幾日かをかけて描き上げることになった。
朝餉が済んだ頃合いを見計らい、主人の五平が客間の縁側に座を構える。遊眼は画帖を膝に、矢立の筆を墨壺に浸しながら、五平の顔をじっと見つめた。
「絵師さんよ、儂の顔なぞ描いて面白いかね。皺だらけの爺の顔だ」
五平は照れ隠しに白湯をすすり、庭先の紫陽花に目をやった。梅雨の合間の朝は、雨に洗われた葉の匂いが濃く、蜘蛛の巣に水滴が光っている。
「皺には、その人の来し方が刻まれておりますゆえ。若い顔より、よほど描き甲斐がございます」
遊眼がそう答えると、五平は満更でもなさそうに相好を崩した。
「なるほどねえ。……この鶴屋も、儂が十五で奉公に入った頃は、掘っ立て小屋も同然の旅籠でな。先代の親方に叩かれ叩かれ、算盤の弾き方から布団の畳み方まで仕込まれたもんだ」
「五十年近く、この宿場でお暮らしに」
「ああ。娘は嫁に出し、倅は江戸で商いの修業をさせておる。あれが戻ったら、この鶴屋も譲るつもりよ。……だからこそ、こうして節目の絵の一枚も残しておきたくてね」
遊眼の筆は止まらない。五平が語るたび、その目元の柔らかな皺、日に焼けた首筋の色、長年算盤を弾いてきた指の節の太さを、丹念に写し取っていく。台所からは糠味噌をかき混ぜる音、井戸端では洗濯をする女中たちの笑い声が聞こえ、庭には蜩(ひぐらし)には早いが、雨蛙の声がしきりだった。
「絵師さんは、いつからその道を」
「十二の折、上方で名のある師の元に弟子入りいたしましたが……ゆえあって、破門されましてございます。それより諸国を巡り、行く先々で似せ絵を描いております」
五平はふむ、と短く唸っただけで、それ以上は問わなかった。かわりに、茶簞笥から茶を出させ、遊眼にも一服すすめる。
「絵師さんの目には、儂らの暮らしがどう映る。旅から旅の身には、退屈にも見えようが」
「いいえ」と遊眼は筆を止めずに答えた。「同じ場所に根を張り、同じ顔ぶれと年を重ねる暮らしにこそ、旅人には見えぬ濃やかさがございます。それを見逃さぬのが、それがしの仕事にございますれば」
五平は目を細め、何も言わずに茶を啜った。庭先の紫陽花が、雨上がりの薄日を受けてぼんやりと色づいていた。
還暦の宴は三日後だった。
その日、鶴屋の広間には近隣の顔役や親類縁者、長年世話になった商人たちが呼ばれ、膳には尾頭付きの鯛、赤飯、煮しめ、酒は灘の下り酒が振る舞われた。行灯の灯りが橙色に揺れ、三味線の音がのんびりと座を賑わせる。
遊眼は座敷の隅、床の間近くに陣取り、矢立の筆を取っては置き、取っては置きして、還暦を迎える主人の顔を写し取ろうとしていた。だが彼の目は、主人の顔だけを追ってはいなかった。
——行商人の男の草履。土間で脱いだそれは、片方だけ泥の跳ね方が違う。
——帳場の行灯。弥助が算盤を弾く手元を照らすその灯りは、宴が始まってからずっと灯されたままだ。
——誰かの袖。すれ違いざま、袷(あわせ)の袖口にうっすらと黒い筋がついているのが見えた。墨ではない。あれは煤(すす)の色だ。
遊眼はそれらを頭の中に描き留めるだけで、誰にも何も言わなかった。ただ筆を動かし、主人の還暦を祝う場の空気を、静かに写生し続けていた。
宴もたけなわの頃、行商人の清吉という男が、遊眼の隣にどっかりと腰を下ろした。
「絵師さんよ、俺も一枚描いてくれよ。おっかあへの土産にしてえんだ」
酒に赤らんだ顔で笑う清吉は、上州から反物を担いで売り歩く行商人だった。この宿場には三日前から逗留しており、明日には発つ予定だという。遊眼は小さく頷き、余った紙の端に、清吉の人懐っこい笑顔をさらりと描いてやった。
三
事件が起きたのは、その夜更けのことだった。
丑三つ時、鶴屋の帳場から二十両が消えた。木戸番の夜回りの拍子木が「火の用心」と遠く響く中、慌てふためく弥助の声が旅籠中に響き渡った。
「金箱が空だ! 誰か、誰か盗人を!」
灯りをかき集め、旅籠中がにわかに騒然となる。真っ先に疑われたのは、他ならぬ清吉だった。
「あの行商人、昨日今日の泊まり客だ。よそ者に決まってる」
「部屋から出るのを見た者もいるらしいぜ」
そんな噂が、火のないところに煙が立つように広がっていく。清吉は青ざめた顔で「俺は部屋から一歩も出ていねえ」と繰り返すばかりで、誰もまともに取り合おうとしなかった。宿の主人は苦い顔で「番屋に届けねばなるまい」と呟いた。清吉が縄をかけられるのも、もはや時間の問題に思われた。
四
遊眼は、騒ぎの中でも一人黙々と、頼まれていた還暦の肖像画に筆を入れ続けていた。
だが彼の脳裏には、宴の間に見た光景が、絵として次々と蘇っていた。
まず、清吉の草履だ。土間の隅に脱ぎ捨てられたそれを、遊眼はもう一度確かめに行った。乾いた泥はひとところに固まっており、夜半に何度も出入りしたなら必ずつくはずの、乾き方の層が見当たらない。一度、宵のうちに歩いた泥がそのまま乾いただけの跡だった。
次に、帳場の行灯。灯心と油の減り具合を見れば、あの灯りは宴が始まってから今この時まで、絶え間なく灯され続けていたとわかる。短い間だけ様子を見に来た者の灯り方ではない。誰かが、長時間そこに留まっていた証だ。
そして、あの袖の黒い筋。墨を扱う遊眼には、それが墨ではなく、行灯の油煙(すす)だと一目でわかった。長く行灯のそばに屈み込んで、帳面と向き合っていた者につく色だ。
——宴の間、ずっと帳場に居座っていたのは、誰だったか。
遊眼の筆が、ふと止まった。そして再び動き出す。彼が描いていたのは、還暦の主人の姿だけではなくなっていた。画面の片隅、さりげなく描き加えられていくのは、行灯の傍らに屈み込み、袖に煤をつけた弥助の後ろ姿だった。
五
「遊さん、あんた、まさかもう分かってるんじゃないのかい」
薄々気づいていた小夏が、行灯の油皿を運びながら小声で尋ねた。飯盛女あがりの彼女は、この手の空気の変化に敏い。遊眼は答えず、ただ描き上げた肖像画を持って、主人の前へと進み出た。
「還暦のお祝いに」
一言だけ添えて広げられた絵には、恰幅のいい主人の穏やかな笑顔とともに、隅に小さく、行灯の前に座る番頭の後ろ姿が描き込まれていた。その袖には、はっきりと煤の跡。
座はしんと静まり返った。主人が眉をひそめ、絵と弥助とを見比べる。
「弥助……お前、宴の間ずっと帳場にいたのか。二十両を数えていたわけでもあるまいに」
問い詰められた弥助の顔から、みるみる血の気が引いていく。震える声で言い訳を重ねようとするが、言葉にならない。ついに彼はがっくりと肩を落とし、洗いざらいを白状した。
帳簿の長年のごまかしが、そろそろ露見しそうになっていた。誤魔化しきれなくなった弥助は、いっそ金を持ち出し、都合よくよそ者の清吉に罪を着せて、この宿場を去るつもりだったのだ。
六
騒ぎが収まった翌朝、鶴屋の前には朝靄がまだ薄く漂っていた。豆腐売りの声が遠くから聞こえ、旅籠の前では飯炊きの煙が立ち上っている。
清吉は疑いが晴れ、幾度も頭を下げながら、上州への帰路についた。
遊眼もまた、菅笠をかぶり、矢立を懐にしまい、次の宿場へ向けて草鞋の紐を結び直していた。
「ちょっと、遊さん! なんで最初からちゃんと言わないのさ、水臭いったら!」
小夏が見送りに出て、頬を膨らませる。遊眼は少し困ったように笑い、ぽつりと呟いた。
「……筆は、正直だ」
それだけ言うと、彼は朝靄の向こうへと歩き出した。宿場の木戸が開き、今日もまた新しい旅人たちが行き交い始める。二十両の騒ぎも、いずれこの宿場の噂話の一つとして、時とともに薄れていくのだろう。
遊眼の懐には、また新しい白紙の画帖が一冊。次の宿場で、彼の目はまた何を見るのだろうか。
(第一話・了)



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