軍医探偵 森林太郎 

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第一話 横浜から来た客

※ 本作は史実を下敷きにした創作です。事件・犯人・脇役はすべて架空であり、細部の時代考証は演出上の脚色を含みます。

一 到着

明治二十一年(一八八八年)九月、東京はコレラの季節だった。

その年の夏、市中では患者が相次ぎ、町々の辻には白い石灰が撒かれ、井戸端には「生水を飲むべからず」の札が立った。巡査は消毒液の入った桶を提げて路地を回り、人々は互いの顔色ばかりを窺っていた。

森林太郎は、その町を、二階の窓から眺めていた。

二十六歳。ドイツ留学から帰って二か月になる。ライプツィヒでもミュンヘンでもベルリンでも、彼はコッホの研究室の空気を吸い、最新の衛生学を体に叩き込んで戻ってきた。だが帰ってみれば、日本の軍医部は「洋行帰り」を珍しがりはしても、その知識を使う場を与えてはくれなかった。

「……来たぞ」

背後から声がした。振り向くと、友人の賀古鶴所が、帽子を手に立っている。鶴所は同じ医者だが、林太郎とは違って、顔に感情が全部出る男だった。今日は特にそうだった。

「横浜からの汽船が着いた。〈ゲネラル・ヴェルダー号〉だ」

「知っている」

「客の名簿に、Elise の名があった」

林太郎は答えず、窓の外を見たまま眼鏡を押し上げた。

「彼女は今、築地の居留地のはずれの宿にいる。お前、会いに行くんだろうな」

「……会う理由がない」

「理由がない?」鶴所は声を荒らげかけて、抑えた。「お前を追って、船で一か月かけて来た女だぞ」

「だから困っている」

林太郎はようやく振り返った。その顔は、いつもの理屈屋のそれではなかった。

「僕は、軍の人間だ。母もいる。西さんもいる。周りは皆、あの女を帰らせろと言う。僕自身も、それが道理だと思う。……だが」

その先を言う前に、階下で乱暴に戸を叩く音がした。

「森軍医殿はおいでか! 警視庁の岩井です。築地で人が死にました」

二 築地の宿

宿は、居留地の外れにあった。外国人向けの小さな洋風旅館で、名を「海浜館」という。石段を上がった二階の角部屋で、ドイツ人の商人が死んでいた。

岩井という刑事は、四十がらみの、額に汗の光る男だった。

「病死です。間違いなくコレラだ。ですがね、届け出れば居留地はしばらく封鎖、この宿も商館も大損です。だから軍医殿のお墨付きで、内々に『急性の胃腸炎』にでも……」

「岩井君」林太郎は静かに言った。「それは、医者に頼む話ではない」

「ですが」

「まず、診せてもらう」

部屋には先客がいた。陸軍の一等薬剤官、大村庸三である。

「おお、林太郎君。君が来てくれて助かった」

大村は白い口髭を撫でて、人のよさそうな笑みを浮かべた。四十七歳。林太郎の帰国の際、荷物の通関から軍医部への挨拶回りまで、何くれと世話を焼いてくれた恩人である。帰国祝いの宴を、先日陸軍省の一室で開いてくれたのも彼だった。

「私も居合わせて診たのだが、症状からしてコレラに間違いない。防疫の手順どおり、遺体は一刻も早く火葬に付し、部屋も消毒して封鎖すべきだ。君ならわかるだろう」

もっともな話だった。当時の防疫規則では、コレラ死体は速やかに火葬または埋葬することになっている。

「ええ、わかります」林太郎は答えた。「ですから、その前に見せてください」

三 検分

死んだのはハインリヒ・ベルガー、四十三歳。ハンブルクの薬品商で、陸軍にキニーネなどを納める取引のために来日していた。エリスと同じ船に乗ってきたという。

遺体は寝台の上で、体を折り曲げていた。顔は落ちくぼみ、唇は乾いて割れている。指先には強い脱水の跡があった。

「嘔吐と下痢が、明け方まで続いたそうです」と、宿の女中のおたねが震え声で言った。

林太郎は鞄から小さな顕微鏡と器具を取り出した。ライプツィヒから持ち帰った携帯用の一式だ。

「これは……」

寝台の脇の洗面器に残っていた吐瀉物と、汚れた敷布を見て、彼の眉が動いた。

コレラなら、下痢は白く濁った「米のとぎ汁」のようになる。ところが、ここにあるものは、水様ではあるが白濁しておらず、ところどころに血の色が混じっていた。

「岩井君、この便は、いつのものだ」

「さあ。夜半から明け方にかけてでしょう」

「ふむ」

彼は試料を一滴ガラスに取り、染色して顕微鏡を覗いた。

コッホの研究室で、何十回、何百回と見た像を思い浮かべる。コレラ菌は、コンマの形に湾曲した桿菌だ。見つかれば、それは決定的な証拠になる。

視野には、あらゆる雑菌が写っていた。だが、コンマ状の菌は、どこにもなかった。

「……ない」

「ない?」大村が身を乗り出した。「一回見ただけでは、見落とすこともあるだろう」

「ええ。何度か調べます。ですが」林太郎は顔を上げた。「この吐瀉物は、少なくとも、教科書どおりのコレラのものではありません」

大村の笑みが、ほんの一瞬だけ、固まった。

「教科書どおり、か」

「大村さん。僕の見立てでは、これは急性の中毒です。それも、ヒ素の可能性が高い」

部屋の空気が冷えた。岩井が「中毒ですって」と呻く。宿の主人は青くなった。

四 エリスの薬

その日の午後、宿の別室で、林太郎は久しぶりにエリスの顔を見た。

痩せていた。長い船旅のせいか、それとも別の理由か。灰色の瞳が、彼を認めると、ゆっくりと潤んだ。

「リンタロウ」

「エリス。……久しぶりだ」

二人は、それ以上の言葉を交わせなかった。

やがて、岩井が入ってきて、遠慮なくエリスの荷物を検め始めた。彼女の旅行鞄の底から出てきたのは、褐色の小瓶だった。

ラベルにはドイツ語で、「Liquor Kalii arsenicosi」とあった。

林太郎の背筋を、冷たいものが走った。

「ファウラー溶液……亜ヒ酸カリウム液だ」

「これは何です、軍医殿」

「強壮薬だ。ドイツでは、貧血や神経の弱った人に、少量ずつ服用させる」

「つまり、ヒ素ですな」

岩井の目が光った。

「同じ船で来た二人。一人は死に、一人はヒ素の薬を持っている。軍医殿、この女は……」

「彼女は持病があった。ドイツの医者に処方されたものだ」

「それは本人の申し立てでしょう」

林太郎は、自分の口が勝手に動くのを聞いた。

「……可能性は、ある。同じ船にいた以上、接点はあった。事情を聞く必要は、認めざるを得ない」

エリスが、彼を見た。

その目に浮かんだのは、怒りではなかった。ただ、静かな、深い落胆だった。

五 賀古の一言

夜。築地から帰る道すがら、賀古は黙って歩いていた。

灯のない河岸で、不意に立ち止まった。

「林太郎」

「なんだ」

「お前、彼女を疑いたくないから、疑うふりをして早く白黒つけようとしていないか」

林太郎は、足を止めた。

「……何だと」

「今日のお前は、いつものお前じゃなかった。お前ならまず、毒が『いつ』『どうやって』体に入ったかを聞くはずだ。それをすっ飛ばして、いきなり彼女の名を口にした。まるで、自分の手で決着をつけて、楽になりたがっているみたいだった」

「賀古」

「怒るなら怒れ。だが、お前の推理は理屈で組み立てられている分、一度前提が狂うと、どこまでも狂ったまま進む。脚気の時だって……」

「あの話はよせ」

「よさない。友達だからだ」

林太郎は長いこと黙っていた。川の水音が聞こえる。遠くで犬が鳴いた。

やがて、彼は肩の力を抜いた。

「……もう一度、最初から見直す」

「ああ」

「ファウラー溶液は、液体だ。彼女の小瓶は、栓が封をされたまま、減っていなかった。そしてもし、あの溶液を盛ったのなら」

林太郎は、はっと目を見開いた。

「胃の中に、あれは残らない」

六 マーシュの鏡

翌朝、林太郎は、大学の理化学教室の一室を借りた。

前夜のうちに、岩井を説き伏せ、遺体の胃の内容物を取り出して保存する許可を得ていた。大村は「時間の無駄だ」と反対した。だが、林太郎は「軍医の職務だ」と押し通した。

「遺体は、明日の朝に火葬される」大村は言った。「それまでに何か出さねば、君も気が済むまい」

期限は、一日と半分だった。

胃の内容物の中に、白い、細かな粒が見つかった。

米粒より小さい。指で潰せば粉になった。

もしこれが亜ヒ酸の粉末なら、と彼は思った。亜ヒ酸は水に溶けにくい。粉のまま飲み下せば、胃の中に溶け残る。ファウラー溶液のような液体を盛ったのなら、こうはならない。

彼はまず、粒をひとつ、炭の欠片の上に載せて、吹管の小さな炎で熱した。

立ちのぼった煙から、ニンニクに似た臭いが、鼻を刺した。

「これで、七割は決まった」

残りの三割を埋めるのが、マーシュ試験だった。

ガラス器に亜鉛の粒と希硫酸を入れ、試料を加える。細いガラス管を通して、気泡とともに出てくる気体に火を点ける。そこに冷たい磁器の皿をかざす。

賀古が、息を殺して見ていた。

炎は、青白く揺れた。

そして皿の上に、じわりと、黒褐色の斑点が広がっていった。

「これは……」

「ヒ素だ」

林太郎は、ガラス管の先にできた、金属光沢を持つ黒い膜を見つめた。砒素鏡。教科書で何度も見た。だが、自分の手で、人の命が失われた事件の中でそれを見るのは、初めてだった。

「念のため、アンチモンではないことも確かめる」

彼は膜を、漂白液に浸した。膜は、あっという間に溶けた。

「アンチモンなら溶けない。これは、ヒ素だ」

賀古が、長い息を吐いた。

「……エリスさんじゃない」

「そうだ。彼女の薬は液体で、しかも封が切られていない。粉のまま飲まされたのだ、ベルガーは」

「じゃあ、誰が、どうやって」

林太郎は、ゆっくりと立ち上がった。

「粉薬だ。彼は毎晩、寝る前に、胃腸の粉薬を飲んでいたと聞いた」

七 薬包紙

海浜館に戻った林太郎は、ベルガーの遺品をもう一度、丹念に調べた。

トランクの中には、小さな携帯天秤と、いくつかの試薬瓶があった。薬品商の彼が、現地で品質を確かめるための道具だ。

そして、遺品の胃腸薬の包みが、机の上にあった。

ドイツ式の薬包紙で、ひとつずつ折り畳まれている。四辺を内側に折り込んだ、角ばった包みだ。全部で十一包。

そのなかの一包だけが、違っていた。

「……賀古」

「なんだ」

「見ろ。この一包だけ、折り方が違う」

それは、細長い紙を斜めに折り、両端を内側へ折り込んで、丸みのある形に仕上げた、日本式の包みだった。陸軍の薬局で、散薬を包むときの折り方だ。

「ドイツから来た男の荷物に、日本式の折り方が混じるはずがない」

「じゃあ、その一包が」

「ああ。仕込まれたものだ。中身は、亜ヒ酸だろう」

だが、これだけでは証拠が弱い。誰が包んだのか、決め手がない。林太郎は、机の脇のごみ箱に目をやった。

手帳が一冊、落ちていた。ベルガーの手帳だ。

最後のページが、破り取られている。

彼は鉛筆を取り、その下の頁を、斜めに薄く塗りつぶした。

筆圧の跡が、白い文字となって浮かび上がる。

東京納入品 規尼涅塩 蛍光弱シ 含量 約八割 (独出荷時 九割九分) 差 二割 ―― 大村ニ問ウ 明夜

「大村……」

賀古が、顔をこわばらせた。

「まさか」

「ベルガーは、納入された品と、自分がドイツで積んだ品との間に、差があることに気づいたのだ。軍の倉庫に入るまでの間に、誰かが中身を抜いて、白い増量剤を混ぜた。彼が、それを追及すれば」

「ドイツ側の粗悪品だと言われて、自分の商いが潰れる。それどころか、詐欺の罪を着せられかねない」

「だから彼は、直接、大村に会おうとした。そして」

林太郎は、言葉を切った。

恩人の顔が、脳裏に浮かんだ。荷物の世話をしてくれた手。帰国を祝ってくれた笑顔。

「……大村さんは、あの夜、陸軍省の宴席にいた」

「ああ、お前の帰国祝いの席だろう。何人もの人間が、あの人を見ている」

「それが、アリバイだ」

八 仕込みの時刻

大村を呼び出したのは、翌朝、火葬の一時間前だった。

場所は、海浜館の、ベルガーが死んだ部屋。岩井と賀古、そして宿の女中おたねが、同席した。

「林太郎君。これは、どういうことだ」

大村は、いつもの穏やかな口調だった。

「ベルガー氏は、ヒ素で殺されました」

「そうか。やはり中毒か。……だが、私は昨夜、いや、彼の死んだ夜は、陸軍省の宴席にいた。君の帰国祝いだったではないか。何人も証人がいる」

「ええ。おっしゃるとおりです。夜のあなたには、完璧なアリバイがある」

林太郎は、静かに続けた。

「ですが、毒が効いた時刻と、毒を仕込んだ時刻は、別のものです」

大村の目が、わずかに動いた。

「ベルガー氏は、毎晩、寝る前に粉薬を飲みました。それは、女中のおたねさんが証言しています。おたねさん、もう一度、話してください」

おたねが、おずおずと口を開いた。

「はい……旦那様は、毎晩、お休みの前に、必ず粉薬をお飲みになりました。あの晩は、いつもより少し早く、お部屋に戻られて……その前の日の昼過ぎに、お客様がいらして、お部屋で長くお話しされておりました」

「お客様とは?」

「軍のお方だと、おっしゃっておりました。お名前は、大村様と……」

部屋が、静まり返った。

「私が、昼に彼を訪ねたのは、事実だ」大村は、平然と言った。「取引の件で話をしに来ただけだ。それが、どうしたと言うのだ」

「そのとき、あなたは、部屋に単独でいる時間があった。そうですね」

「……」

「机の上には、ベルガー氏の胃腸薬の包みが並んでいた。あなたは、そのうちの一包を、あなた自身が用意した包みにすり替えた。中身は、亜ヒ酸の粉末」

「馬鹿な。証拠がない」

「あります」

林太郎は、机の上に、あの日本式の薬包紙を置いた。

「これが、すり替えられた一包の包み紙です。ドイツ式の薬包紙の中に、ただ一つ、日本式の折り方がある。陸軍の薬局の折り方だ。あなたの職業的な癖が、出たのです」

「折り方など、誰でもできる」

「そうかもしれません。ですが」

林太郎は、手帳の写しを、大村の前に広げた。

「ベルガー氏は、死の前夜、あなたに会うつもりだった。『含量約八割、独出荷時九割九分、差二割、大村ニ問ウ』とあります。そして、納入品のキニーネを再分析すれば、純度の低下は、すぐに示せます」

「それは、軍の倉庫の管理の問題だ」

「そうです。あなたが管理していた、軍の倉庫の」

大村は、しばらく黙っていた。

やがて、彼は、ふっと笑った。

「……君は、いい医者になる。ヨーロッパで学んだ甲斐があった」

「大村さん」

「だが、林太郎君。私を暴いて、どうなる」

彼は、静かに椅子に腰を下ろした。

「陸軍の薬剤官が、納入品を横流しし、外国商人を毒殺した。こんな話が世に出れば、軍の名誉はどうなる。君の後ろ盾も、失うことになるぞ。君の帰国を、あれほど気にかけた人間たちの顔が、潰れる」

「……」

「事件は、コレラで終わるのだ。そのほうが、皆にとって都合がいい」

林太郎は、拳を握った。

「僕は、ヒ素だと知ってしまった」

「知ってしまった、な」大村は、肩をすくめた。「その重さは、これから、君が一生、背負うものだ」

九 結末

九月の終わり、事件は「コレラによる病死」として記録された。

大村は「持病の悪化」を理由に退官し、故郷の田舎へ帰った。軍は、納入品の再検査を静かに行い、薬品の一部を入れ替えた。それだけだった。

ベルガーの死の真相は、公にはならなかった。ハンブルクの遺族には、日本のコレラで亡くなったと伝えられた。

岩井は、「面倒がなくて助かります」と言って、二度と林太郎の前に現れなかった。

エリスは、疑いが晴れた翌日、荷物をまとめた。

帰国の決意は、彼女自身が固めていた。林太郎の周囲の反対もあったが、それ以上に、彼女はこの国で、彼が自分を選べる人間ではないことを、悟ったのだと思う。

十月の、よく晴れた朝。横浜の港で、船は出る予定だった。

林太郎は、行かなかった。

代わりに、賀古が、彼女を見送った。

「彼女、何か言っていたか」

夕方、林太郎の部屋を訪ねた賀古に、彼は背を向けたまま尋ねた。

「……何も。ただ、お前によろしくと。それから」

「それから?」

「あの日、私を疑ったことを、責めはしない、と。あなたの、それが弱さであることも知っている、と」

林太郎は、何も言わなかった。

賀古は、その背中を見て、それ以上、何も言えなかった。

やがて、彼は静かに部屋を出た。

夜が来た。

林太郎は、机に向かった。

原稿用紙を広げ、筆を取る。

だが、最初の一行が、どうしても書けなかった。

人を救うために学んだ知識で、人の罪を暴いた。暴いたのに、その罪を、国のために黙った。愛した女を、国のために遠ざけた。

自分は、何を守ったのか。

窓の外に、築地の方角の、遠い灯が見えた。

長い時間ののち、彼は、ようやく一行だけを書いた。

  石炭をば早や積み果てつ。

その先は、まだ、何も浮かばなかった。

(第一話 了)

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