小説「旅絵師・遊眼」墨目(すみめ)

Uncategorized

第二話「束石の下(つかいしのした)」

鶴屋を発ってから七日ほど、遊眼は東海道を西へと歩を進めていた。箱根の峠は、いかに険しかろうと馬の背に揺られればどうにか越せるものを、この先に控える大井川ばかりは、馬でも金でもどうにもならぬ。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とは、よく言ったものだと遊眼は道々思う。橋もかけず渡し舟も禁じられたこの川は、ただ川越人足の肩に担がれてしか渡れぬという、東海道随一の難所であった。

「またかい。この先も川止めだって」

隣を歩く小夏が、うんざりした声を上げた。似せ絵の宿の一件のあと、「あんたの旅、退屈しなさそうだから」という理由(らしきもの)をつけて、いつの間にか遊眼の旅について回るようになっていた。本人曰く「宿場の飯盛り仕事より、よっぽど気楽だよ」とのことだったが、遊眼はそれについて特に何も言わなかった。

もっとも、小夏がついて回る本当の理由を、遊眼はまだ知らない。

小夏は、鶴屋で遊眼に出会ったあの日から、内心ひそかに胸を焦がしていた。飯盛女あがりの自分を、遊眼は一度として蔑むような目で見なかった。物珍しそうにでも、憐れむようにでもなく、ただ他の誰を見るのと同じ、静かな眼差しで見た。それだけのことが、小夏にはひどく新しく思えたのだ。

男という男は、小夏の過去を知ると、決まって二通りの目をした。一方は好奇の目、もう一方は見下す目。だが遊眼だけは、彼女の来し方などまるで意に介さぬふうに、ただ「今、目の前にいる小夏」だけを見ていた。それは彼が、草履の泥や行灯の油にまで目を凝らすのと、きっと同じ流儀なのだろう——見えるものだけを、ありのままに見る。飾らず、蔑まず、ただ見る。

その不器用なまでの実直さと、無口ゆえに滲み出る誠実さに、小夏はすっかり絆されてしまっていた。もっとも、それを本人に打ち明けるつもりは、当分なさそうだったが。

梅雨の名残の雨が幾日も降り続き、大井川は普段の穏やかな瀬音が嘘のように、赤茶けた濁流となって唸りを上げていた。川越人足たちも肩を組んで水嵩を測っていたが、「今日はとても越せぬ」と首を横に振るばかり。川会所の高札には「川留」の二文字。旅人たちは対岸を眺めながら、なす術もなく足止めを食っていた。

渡し場の茶屋「玉川屋」には、すでに十人あまりの旅人が雨具を脱ぎ、蓑笠から滴る水を払いながら詰めかけていた。囲炉裏には炭が赤々と熾り、濡れた着物を乾かす湯気と、味噌の焦げる匂いが立ち込めている。

二

茶屋の主人に頼まれ、遊眼はこの地で長年川越人足を束ねる元締め、六蔵という老爺の肖像を描くことになった。齢六十を超えてなお、毎日川縁に立ち、人足たちに川の深さと流れを見極めさせてきた男だという。

「六蔵さんはねえ、若い時分に大水で流された旅人を、自ら肩車で助け出したこともあるんだよ」

茶屋の女房が、茶を運びながら誇らしげに語る。六蔵自身は口数少なく、ただ日に焼けた顔に深い皺を刻み、遠くの川面を見つめるばかりだった。

遊眼は縁台に座した六蔵と向き合い、矢立の筆を進める。囲炉裏の煙が薄く漂う中、六蔵はぽつりぽつりと、長年の川越稼業の話をした。

「川はな、絵師さんよ、日によって顔が違う。同じ流れなど、二度とねえ」

「それは、人の顔も同じにございましょう」

遊眼が応じると、六蔵は珍しく口の端を緩めた。

三

その夜も川止めは解けず、玉川屋には旅人たちが雑魚寝を強いられていた。川留めの間、路銀など大事な金子は、盗難を恐れて茶屋の裏納戸に一時預けるのが、この渡し場の習わしだった。納戸の鍵を預かるのは、長年の信頼篤い六蔵ただ一人。裏納戸へは、雨の中を土間伝いに出て、勝手口から出入りするほかない。

そんな中、対岸から流れ着いたという素性の知れぬ男が、隅の板間で眠っていた。名を佐吉という渡り職人で、腕は立つが宿無しで諸国を渡り歩いているという。濡れた着物のまま倒れ込むように眠っていたのを、茶屋の者が拾って介抱したのだった。

翌朝、騒ぎが起きた。旅人の一人が路銀を入れた革袋——三両ほどの金子——を、預けたはずの裏納戸から紛失したというのだ。

「昨夜、佐吉とかいうあの男が、土間をうろついているのを見た」

そんな証言が広まり、佐吉に疑いの目が集まる。

「俺は川に流されて、ここに辿り着いただけだ。盗みなんぞ働いちゃいねえ!」

佐吉は必死に訴えるが、素性の知れぬよそ者という立場は弱い。茶屋の主人は「川会所に届け出ねば」と眉根を寄せた。

四

遊眼は騒ぎの中でも、六蔵の肖像画に筆を入れ続けていた。だが、脳裏には昨夜からの光景が、絵として蘇っていた。彼が見て取ったのは、次の三つである。

一つ、佐吉の草鞋。 土間の隅に脱がれたそれを見ると、紐の結び目についた泥が乾ききっている。だが、それは古い乾き方——昨夜の雨でぬかるんだ土間伝いに、裏納戸まで歩いた者につくはずの、湿った新しい泥ではなかった。つまり佐吉は、昨夜一度も裏納戸へ通じる土間へ出てはいない。裏納戸から金を持ち出すには、必ずあの泥濘を踏まねばならぬのだから、佐吉には端からその機会がなかったのだ。

二つ、囲炉裏端の炭俵。 普段の減り方より、明らかに多く使われている跡があった。誰かが夜更け、こっそりと火の傍で長く過ごしていた証だ。雨に濡れた着物か、あるいは何か——を、人目を忍んで乾かしていたのだろう。

三つ、六蔵の煙管の灰。 六蔵はいつも決まって縁台の脇にしか灰を落とさぬ男だった。だが今朝方、それが茶屋の裏手、裏納戸に通じる勝手口の傍に落ちていた。裏納戸の鍵を預かるのは六蔵ただ一人。彼がそこに長く留まっていたこと自体は不思議ではないが、いつもと違う場所に灰を落とすほど長時間——それも、雨に濡れた体を炭火で乾かすほどの間——そこにいた理由が、遊眼にはどうしても腑に落ちなかった。

草履の泥が佐吉の潔白を示し、炭俵と煙管の灰が、裏納戸に長時間出入りできた者は六蔵しかいないと告げている。遊眼の筆が止まる。そして、また静かに動き出す。

五

とはいえ、灰の落ちた場所が違うというだけでは、六蔵を盗人と決めつけるにはまだ足りぬ。裏納戸の鍵を預かる身であれば、夜通しその傍に留まっていたところで、不思議はないと言い張られればそれまでの話だ。

そこで遊眼の脳裏に、以前描いたある一枚の絵が蘇った。数年前、諸国を巡っていた折に、たまたまこの渡し場の風景を写生したことがあった。

懐から古い画帖を取り出し、頁をめくる。あの絵の片隅、茶屋の裏手を写した部分に、遊眼はふと目を留めた。勝手口の脇、納戸を支える床束の一本——そこだけ、他の束石とわずかに色合いが違う。当時は気に留めず、見たままをただ写しただけだったが、よく見れば束石がずれ、下に小さな隙間ができているのが、絵の中にはっきりと描き込まれていた。

「……まさか」

遊眼はそう呟くと、画帖を手に裏納戸へと向かった。教えられた通りの束石をずらしてみると、果たしてそこには小さな穴蔵があり、油紙にくるまれた革袋——紛失したはずの路銀そのものが、隠されていた。

数年前からそこにあったに違いない隙間を、六蔵は長年、誰にも気づかれることなく使い続けてきたのだろう。今回も、川止めの混乱に乗じて路銀を持ち出し、ほとぼりが冷めた頃に自らそこから取り出すつもりだったのだ。

六

遊眼は、見つけた革袋を手に、描き上げたばかりの六蔵の肖像画とともに、茶屋の主人の前に進み出た。

「川越元締め殿の、記念の一枚にございます」

そう言って肖像画を差し出すと、遊眼はその隣に、油紙にくるまれた革袋をそっと置いた。

「裏納戸の床束の下に、こちらが」

茶屋の女房が息を呑み、旅人たちがざわめく。六蔵は革袋を見つめたまま、しばらく言葉を失っていたが、やがて観念したように肩を落とし、洗いざらいを白状した。

佐吉の疑いは晴れ、彼は幾度も頭を下げながら、川が引くのを待つことになった。

七

数日後、ようやく川止めが解けた。濁流は勢いを弱め、川越人足たちが「越すに越されぬ」はずの大井川に、次々と旅人を担ぎ上げていく。蓮台に乗る者、屈強な人足の肩に直に跨る者、様々である。

遊眼と小夏も、それぞれ人足の肩を借り、水飛沫を上げながら川を渡っていく。

「なあ、遊さんよ」

肩に揺られながら、小夏が呆れたように言った。

「今度は川越の元締めかい。……ねえ、絵師さんて、みんな信じるふりして、誰も信じてないだろ」

遊眼は少し困ったように笑い、川面を見つめたまま答えた。

「……見た通りを、描くだけだ」

対岸に降り立つと、金谷宿の方角に、次の旅の空が広がっていた。遊眼の懐には、また新しい白紙の画帖が一冊、収まっていた。

(第二話・了) 註釈・束石(つかいし)について

日本建築の伝統的な工法で、建物の床を支える柱(床束/ゆかづか)の下に据える石のことです。

Amazon.co.jp: ダイドーブレンドTHE BLACK 185g×24本 香料無添加 : 食品・飲料・お酒
Amazon.co.jp: ダイドーブレンドTHE BLACK 185g×24本 香料無添加 : 食品・飲料・お酒

コメント

タイトルとURLをコピーしました