重軽の御用聞き
早鐘の刻限
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神田三河町に「怪力の重蔵」と呼ばれる岡っ引きがいた。
米俵を軽々と担ぎ、暴れ牛の角をつかんで捻じ伏せ、喧嘩の仲裁といえば、双方の頭を両手でまとめて小突くだけで済ませてしまう。
それでいて頭も切れる。
町方与力からの信頼も厚く、重蔵が乗り出した一件で迷宮入りになった話は聞いたことがないという評判だった。
その子分が「軽っ八」。
本名は八十吉というが、誰もそう呼ばない。
屋根から屋根へ跳び、塀を越え、路地から路地へ、まるで忍びのように音もなく駆け抜ける身の軽さゆえの二つ名だった。
力の重蔵、速さの軽っ八――
二人合わせて「重軽(じゅうけい)の御用聞き」と呼ぶ者もいた。
事件は、日本橋の呉服問屋・越後屋の主人、勘六が離れの茶室で刺し殺されたことに始まる。
「旦那が殺されたのは、七つの鐘が鳴った直後でございます」
そう証言したのは番頭の徳兵衛だった。
母屋の女中たちも、寺の鐘の音を合図に夕餉の支度を始めるのが常だったから、時刻ははっきりしている。
七つ時――午後四時頃。
たしかに鐘は鳴った。
そしてその直後、茶室から主人の呻き声が聞こえたという。
ところが、この勘六には甥の卯之吉という男がいて、店の身代を巡って日頃から仲が悪かった。
しかも卯之吉は、七つの鐘が鳴った刻限には、両国の水茶屋で幇間や馴染みの女と共に、はっきりと人目のある場所で酒を飲んでいたことがわかった。
「筋書きは見えてるんですがねえ、親分。卯之吉の野郎が一番怪しい。けど、このアリバイばかりは崩しようがねえ」
軽っ八がぼやくと、重蔵は太い腕を組んで唸った。
「鐘が鳴った刻限に、向こうにいたっていう証人が大勢いるんじゃ仕方あるめえ……」
重蔵はしばらく黙り込んだ。
そして――
「……いや、待てよ」
その目が、ぎらりと光った。
「軽っ八。お前、その鐘を撞いた寺の小坊主に、探りを入れてこい」
⸻
二
軽っ八の足は、まさに韋駄天であった。
寺までの道のりを、屋根伝いに跳び、木々の梢を渡り、まるで鳥のようにひとっ飛びで駆け抜ける。
本堂の裏手で洗濯物を干していた寺男に声をかけ、世間話のふりをしながら聞き出したところによると、鐘撞き役の小坊主・道念は、近頃妙に羽振りがいいという。
「小遣いにしちゃあ多すぎる銭を持ってやがる。こいつぁ臭うぜ」
軽っ八は本堂の縁の下に忍び込み、息を潜めて様子を窺った。
すると案の定、日が傾く頃、遊び人風の男がこっそりと寺を訪れ、道念に何やら耳打ちしている。
「明日もいつも通り頼むぜ。早めに、な」
軽っ八は、その声と顔をしっかりと目に焼き付けた。
そして――
跳ぶように塀を越え、韋駄天の速さで重蔵のもとへ取って返した。
「親分! 見つけやした!」
「何をだ?」
「鐘撞きの小坊主が、何者かに銭を渡されて、鐘を早く撞くよう頼まれてるみてえです!」
重蔵は膝を打った。
「そういうことか……」
「何がです?」
重蔵は、にやりと笑った。
「勘六が殺されたのは、鐘が鳴るより前だったんだ」
「えっ?」
「小坊主に銭を握らせて、いつもより早く鐘を撞かせておけば、下手人は『鐘が鳴った後』に殺しがあったと町の者に思い込ませることができる」
重蔵は指を一本立てた。
「そうすりゃ、鐘の鳴る刻限には遠く離れた場所にいたって顔をして、堂々とアリバイを作れるって寸法よ」
軽っ八の顔から笑みが消えた。
「じゃあ……卯之吉の野郎は、鐘の音そのものを使ってアリバイをこしらえたってことですかい?」
「そういうこった」
「けど親分、道念坊主に頼んだのが誰か、面が割れねえことにはどうにも……」
「案ずるな」
重蔵は立ち上がった。
「手はある」
⸻
三
翌朝。
重蔵と軽っ八は、寺へ向かった。
鐘撞き役の小坊主・道念を呼び出し、重蔵は静かに問いただした。
「昨日、鐘を撞くよう頼みに来た男の顔を覚えているな?」
道念はおどおどと目を伏せた。
「……はい」
「そいつは何者だ?」
「それは……」
「隠せば、お前も共犯として扱われることになるぞ」
道念の顔が青ざめる。
しばらく黙った後、ぽつりと口を開いた。
「……越後屋さんのところの……手代です」
「名前は?」
「伊助です」
軽っ八が勢いよく振り向いた。
「親分! 昨日の遊び人風の野郎と同じじゃねえですか!」
重蔵はうなずいた。
「よし。あとは本人に聞くまでだ」
⸻
四
伊助は最初こそ白を切っていた。
「何のことだか、さっぱり……」
しかし、重蔵が丸太のような腕で肩をぐいと掴むと、それだけで観念した。
「わ、わかりました! 話します!」
伊助は、洗いざらい吐いた。
卯之吉に金で雇われ、寺の小坊主に賄賂を渡して、鐘を実際より四半刻――約三十分も早く撞かせていたこと。
その隙に卯之吉自身が茶室に忍び込み、叔父の勘六を刺し殺したこと。
そして何食わぬ顔で両国の水茶屋へと取って返し、あたかも鐘の鳴る刻限にはそこにいたかのように装っていたこと。
すべてが明らかになった。
「つまり卯之吉は、鐘の音で時間を偽ったわけだな」
重蔵が言う。
伊助は、うなだれたまま答えた。
「……へえ」
やがて卯之吉が縄目にかかる段になっても、なお悪あがきを見せた。
「俺は知らねえ! 何もしてねえぞ!」
そして突然、蔵の前に積んであった米俵の山を押し倒した。
ドォン!
米俵が崩れ、道を塞ぐ。
「へへっ! これで追って来られまい!」
卯之吉が逃げようとした、そのとき――
「無駄な足掻きだ」
重蔵が前に出た。
積み上がった米俵の山を、両腕でひょいと持ち上げる。
「なっ……!」
道を塞いでいた米俵が、まるで何でもない荷物のように脇へ移された。
卯之吉は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「御用だ!」
重蔵の一声が、日本橋の空に轟いた。
⸻
五
一件落着の後。
番屋で茶をすすりながら、軽っ八が感心したように言った。
「しかし親分、よく鐘の時間がおかしいって気づきましたねえ」
重蔵は湯呑みを置いた。
「町の者はな、鐘の音を聞いて『ああ七つだ』と信じ込む」
「へえ」
「だが、鐘そのものが嘘をつくわけじゃねえ」
重蔵は、にやりと笑った。
「鳴らす人間が嘘をつくのよ」
軽っ八が目を丸くする。
「なるほど……」
「お前は誰よりも早く駆けて、人の噂を拾う」
重蔵は軽っ八を見た。
「俺は誰よりも力ずくで、物事の裏を暴く」
そして二人は顔を見合わせた。
「軽さと重さ――」
「両方揃わなきゃ、この一件は解けなかったろうよ」
軽っ八は、へへっと笑った。
そして湯呑みを置くと、身軽に立ち上がった。
「さて親分、次はどこへ跳びやしょうか」
三河町の空の下。
今日もまた――
「重軽の御用聞き」の噂が、江戸の町を駆け巡っていくのだった。


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