戦国の世に武将として名を馳せながら、最後まで自らの信仰を捨てなかった男がいる。高山右近(たかやま うこん)。洗礼名「ジュスト」。地位も財産も、そして故郷さえも手放してなお、彼が守り抜いたものとは何だったのか。その波乱の生涯を辿る。
生い立ちと入信

高山右近は1552年(天文21年)、摂津国(現在の大阪府北部)に生まれた。父は松永久秀に仕えていた武将、高山飛騨守友照(たかやま ひだのかみ とものり)である。
右近が12歳の頃、父・友照が宣教師との出会いをきっかけにキリスト教へ入信。これに伴い右近も洗礼を受けたと伝えられる。少年期からキリスト教の教えとともに育った右近にとって、信仰は生涯を貫く揺るぎない軸となっていく。
武将としての歩み
右近は摂津国高槻城主として頭角を現す。当初は荒木村重に仕えていたが、1578年、村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」において、信長方につくという苦渋の決断を下した。この際、信長がキリスト教布教の許可を交渉材料にしたとも伝えられ、信仰と武将としての立場がせめぎ合う出来事となった。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、明智光秀を討った「山崎の戦い」や賤ヶ岳の戦いで武功を挙げる。また千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるなど、茶人・教養人としての顔も持ち合わせていた。
転機 ― バテレン追放令
右近の人生を大きく変えたのが、1587年(天正15年)に秀吉が発した「バテレン追放令」である。宣教師の国外追放と信仰統制を命じるこの令に対し、右近は従うことを拒んだ。
大名としての地位も、領地も、財産も失うことを承知の上での決断だった。多くの大名が改宗や棄教を選ぶ中、右近はただ一人、信仰に一切の妥協をしなかった。
その後は加賀の前田利家・利長父子のもとに身を寄せ、金沢での不遇の日々を過ごしながらも、静かに祈りの生活を続けたという。
国外追放、そして最期
事態がさらに悪化したのは、江戸幕府が禁教政策を強めた1614年(慶長19年)。徳川家康の禁教令により、右近は国外追放処分を受け、他のキリシタンたちとともにマニラ(現フィリピン)へ送られる。
高齢の身での長い航海は右近の体力を大きく奪い、マニラ到着からわずか40日余り後の1615年2月、右近はその地で息を引き取った。異国の地での死であったが、現地では盛大な葬儀が営まれ、信仰に生きた武将への敬意が示されたと伝えられている。
列福 ― 350年の時を超えて
高山右近の生き様は、没後400年近くを経てローマ・カトリック教会からも評価されることとなる。2016年、教皇フランシスコが列福を承認し、翌2017年2月、大阪城ホールにて列福式が執り行われた。「福者ユスト高山右近」として、その信仰の証しが公式に認められた瞬間である。
おわりに
高山右近の生涯は、権力や地位よりも自らの信念を貫くことの重みを、今を生きる私たちに問いかけてくる。武将として確かな実績を残しながらも、最終的にすべてを手放してでも信仰を守り抜いたその姿勢は、時代を超えて人の心を動かし続けている。大阪府高槻市には今も右近ゆかりの史跡が残り、彼が生きた証を静かに伝えている。
高山右近 略年表
| 西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1552年(天文21年) | 0歳 | 摂津国にて高山飛騨守友照の子として誕生 |
| 1564年頃(永禄7年頃) | 12歳頃 | 父・友照の入信をきっかけに右近も洗礼を受ける(洗礼名「ジュスト」) |
| 1573年(天正元年) | 21歳 | 摂津国高槻城主となる |
| 1578年(天正6年) | 26歳 | 荒木村重の謀反(有岡城の戦い)に際し、織田信長方につくことを決断 |
| 1582年(天正10年) | 30歳 | 本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀討伐に参加 |
| 1583年(天正11年) | 31歳 | 賤ヶ岳の戦いに参陣し武功を挙げる |
| 1585年頃(天正13年頃) | 33歳頃 | 播磨国明石へ転封。茶人としても活動し「利休七哲」の一人に数えられる |
| 1587年(天正15年) | 35歳 | 豊臣秀吉の「バテレン追放令」に従わず、大名の地位・領地・財産を失う |
| 1588年〜(天正16年〜) | 36歳〜 | 前田利家・利長父子の庇護を受け、加賀・金沢へ身を寄せる |
| 1614年(慶長19年) | 62歳 | 徳川幕府の禁教令により国外追放処分を受け、マニラへ送られる |
| 1615年2月(慶長20年) | 63歳 | マニラ到着からおよそ40日後、現地で死去 |
| 2016年 | ― | 教皇フランシスコが列福を承認 |
| 2017年2月 | ― | 大阪城ホールにて列福式が執り行われ、「福者ユスト高山右近」となる |


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