戦国武将の評価というのは、大抵「どれだけ派手に勝ったか」で語られます。しかし佐竹義宣という人物は、そのモノサシでは測れません。彼の生涯を貫くキーワードは、勝利でも野心でもなく——**「義理」**でした。そしてその義理が、彼の人生に栄光と没落、両方をもたらすことになります。

従兄弟は伊達政宗、隣人は北条氏
義宣は元亀元年(1570年)、常陸国太田城に生まれました。父は「鬼義重」の異名で知られる佐竹義重、母は伊達晴宗の娘。つまり、あの伊達政宗とは母方の従兄弟という間柄です。血筋だけ見れば華やかですが、実際の少年時代はかなり過酷でした。南には後北条氏、北には従兄弟であるはずの伊達政宗という二大勢力に挟まれ、佐竹家は常に綱渡りの外交を強いられていたのです。
家督を継いだ後、義宣が選んだ生き残り戦略は「中央とのパイプを太くすること」でした。豊臣秀吉に接近し、石田三成、上杉景勝と親交を結びます。この人脈が、後の彼の運命を大きく左右することになります。
小田原参陣、そして「豊臣六大将」へ
天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐。義宣は1万余の軍勢を率いて参陣し、北条方の城を攻略しながら小田原へ進軍、秀吉に謁見して臣従します。さらに石田三成の指揮下で忍城水攻めの堤防構築にも従事しました。
この功績により、佐竹家は常陸・下野の一部、約21万貫(35万石余)を安堵され、のちには太閤検地を経て54万5千石という大身へと成長。徳川・前田・島津・毛利・上杉と並び「豊臣六大将」の一角に数えられるまでになりました。田舎の一豪族から、天下政権の主要プレイヤーへ——義宣の前半生は、まさに絵に描いたような出世物語です。
女乗物に隠して恩人を救う
義宣の「義理堅さ」が最も劇的に表れたのが、慶長4年(1599年)の事件です。加藤清正・福島正則ら武断派の大名たちが、石田三成の屋敷を襲撃するという事態が発生しました。
このとき義宣がとった行動が凄まじい。三成を女乗物(女性用の輿)に隠して脱出させ、宇喜多秀家の屋敷まで逃がしたのです。周囲からは「徳川家康に釈明すべきだ」と忠告されますが、義宣はこう言い放ったと伝えられています。
三成は公の命に背いたことなどないのに、諸将は私情で彼を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けた身。ただ命がけで恩人を救っただけのことだ。
損得ではなく、受けた恩は返す。このエピソードは義宣という男の本質を、これ以上ないほど鮮やかに物語っています。
関ヶ原、揺れ動いた「義理」
しかしこの「義理堅さ」は、天下分け目の関ヶ原において、義宣を苦しい立場に追い込みます。
三成・上杉景勝との親交から、義宣は密かに上杉方につく密約を交わしていました。ところが家中では徳川方につくべしという声も根強く、特に父・義重はこの東軍加担を強く主張します。板挟みになった義宣は、結局どちらにも積極的に与することができないまま、曖昧な態度で戦を静観することになりました。
関ヶ原が東軍勝利に終わった後も、義宣はなんと2年間も家康への謝罪に赴きませんでした。上杉や島津の処分が決まる中、佐竹家だけが処遇未定のまま宙ぶらりんの状態が続いたのです。最終的には父・義重の説得を受け、慶長7年(1602年)にようやく上洛し謝罪します。
このときの義宣の態度について、家康が漏らしたとされる評は実に印象的です。
今の世に佐竹義宣ほど律儀な者は見たことがない。しかし、あまりに律儀すぎても困りものだ。
——褒めているのか呆れているのか分からない、この絶妙な評価。まさに義宣という人物のすべてが詰まった一言と言えるでしょう。
54万石から20万石へ、そして秋田へ
謝罪の直後、義宣は家康から国替えを命じられます。行き先すら知らされないまま下された処分。最終的に決まったのは出羽国秋田、石高は20万石。実に34万石もの大幅な減封でした。
普通ならここで心が折れてもおかしくありません。しかし義宣はここから、本領を発揮します。慶長7年(1602年)に秋田入りすると、土崎湊城を経て久保田城を新たに築城。家柄や旧例にとらわれず、渋江政光や梅津政景といった有能な人材を、出身にかかわらず積極的に登用しました。
この人材登用は、譜代の老臣たちの反感を買い、義宣と渋江政光の暗殺計画(川井事件)まで起きています。それでも義宣は改革の手を緩めず、結果として江戸中期の久保田藩の実高は45万石にまで回復。減封という逆境を、内政手腕でねじ伏せてみせたのです。
大坂の陣、そして晩年の悲喜劇
慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参陣し、今福の戦いで功を挙げます。この戦いでは腹心の渋江政光が戦死するという痛手を負いながらも、幕府方における佐竹家の評価はむしろ高まりました。
一方で家庭内は波乱含みでした。実子が育たなかった義宣は、甥の盛泰を養子にしますが早世。次に佐竹北家から迎えた義直を嫡子としますが——なんと江戸城での能楽見物中に義直が居眠りをしてしまい、それを伊達政宗から注意されるという失態が原因で、義宣は義直を廃嫡してしまいます。政略と外聞に厳しい大名社会の空気が伝わってくる、なんとも人間味あふれるエピソードです。最終的には弟・岩城貞隆の子である吉隆を新たな継嗣として迎えました。
寛永10年(1633年)1月25日、義宣は江戸の屋敷で64年の生涯を閉じます。
おわりに——「律儀」という生き方の代償と実り
佐竹義宣という人物を眺めていると、つくづく思います。損得だけで動く武将なら、もっと楽な人生を送れたはずです。三成を見捨てていれば、関ヶ原でどちらかに全力で味方していれば、彼の評価は違ったものになっていたかもしれません。
けれど義宣は、恩義を貫き、板挟みの中でも自分なりの筋を通し続けました。その結果として34万石を失うという大きな代償を払いながらも、秋田の地に新しい藩の礎を築き、佐竹家を明治維新まで存続させる土台を作り上げたのです。
家康の「律儀すぎても困る」という評は、皮肉のようでいて、実は最大級の賛辞だったのかもしれません。損得勘定が支配する戦国乱世の中で、最後まで「義」を貫いた男——それが佐竹義宣という武将の、何よりの魅力だと思うのです。
佐竹義宣 年表
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 元亀元年(1570年)7月16日 | 常陸国太田城にて誕生。父は佐竹義重、母は伊達晴宗の娘(伊達政宗は母方の従兄弟)。 |
| 元亀3年(1572年) | 那須氏との和睦条件として、那須資胤の娘を娶ることが決まる(当時3歳)。 |
| 天正13〜14年(1585〜1586年) | 壬生氏攻めにて初陣(天正14年4月という説が有力)。 |
| 天正14〜18年(1586〜1590年)の間 | 父・義重の隠居により家督を相続(時期については諸説あり)。 |
| 天正17年(1589年)11月28日 | 豊臣秀吉より小田原征伐への出陣命令を受ける。 |
| 天正18年(1590年)5月 | 1万余の軍勢を率いて小田原へ出陣。5月27日、秀吉に謁見し臣従。 |
| 天正18年(1590年)6月 | 石田三成の指揮下、忍城水攻めの堤防構築に従事。 |
| 天正18年(1590年)8月1日 | 常陸・下野の一部、約21万貫余(35万石余)の所領を安堵される。 |
| 天正18年(1590年)12月 | 父・義重が水戸城を攻略、大掾氏を滅ぼす。 |
| 天正18年(1590年)12月23日 | 従四位下・侍従・右京大夫に叙任。 |
| 天正19年(1591年)1月2日 | 秀吉より羽柴姓を与えられる。 |
| 天正19年(1591年)2月9日 | 南方三十三館の国人衆を討伐し、常陸国全域の支配権を確立。 |
| 天正19年(1591年)3月21日 | 居城を太田城から水戸城へ移す。 |
| 天正19年(1591年)6〜10月 | 奥州への大規模出兵(軍役2万5千人)に従事。 |
| 文禄元年(1592年)1月〜 | 朝鮮出兵(唐入り)のため名護屋城へ出陣(本人の渡海は見合わせとなる)。 |
| 文禄4年(1595年)6月19日 | 太閤検地の結果を受け、54万5,765石を安堵される。 |
| 慶長2年(1597年)10月 | 宇都宮国綱の改易に連座しかけるが、石田三成の取りなしで難を逃れる。 |
| 慶長4年(1599年)閏3月3日 | 加藤清正らに襲撃された石田三成を、女乗物に隠して救出。 |
| 慶長5年(1600年) | 関ヶ原の戦い。上杉方との密約を結ぶも、家中の対立で去就を明確にできず静観。 |
| 慶長7年(1602年)4月 | ようやく上洛し、徳川家康に関ヶ原不戦を謝罪。 |
| 慶長7年(1602年)5月17日 | 出羽国秋田への転封が決定(54万石→20万石の大減封)。 |
| 慶長7年(1602年)9月17日 | 秋田・土崎湊城に入城。 |
| 慶長8年(1603年)5月〜 | 久保田城の築城を開始し、以後これを本城とする。 |
| 慶長19年(1614年) | 大坂の陣(冬の陣)に徳川方として参陣。今福の戦いで功を挙げるも、腹心・渋江政光が戦死。 |
| 元和2年(1616年)7月17日 | 養嗣子・盛泰が22歳で死去。 |
| 元和7年(1621年)7月7日 | 佐竹北家の申若丸(義直)を宗家の嫡子とする。 |
| 寛永3年(1626年)3月21日 | 義直を廃嫡(能楽見物中の居眠りが伊達政宗に咎められたことが一因とされる)。 |
| 寛永3年(1626年)4月25日 | 甥にあたる岩城吉隆を新たな継嗣とする許可を得る。 |
| 寛永10年(1633年)1月25日 | 江戸神田屋敷にて死去。享年64。 |



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