玉川兄弟の挑戦――江戸を救った43キロの水路

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玉川兄弟の挑戦――江戸を救った43キロの水路

危機に瀕した江戸の飲み水

17世紀半ば、江戸の人口は爆発的に増加していた。すでに神田上水だけでは町人たちの飲み水をまかないきれなくなり、幕府は新たな水源の確保を迫られる。白羽の矢が立ったのが、多摩川だった。

江戸の命を救った43km、玉川上水 #玉川兄弟

巨大プロジェクトの布陣

この一大事業の総奉行に任じられたのが、老中・松平伊豆守信綱である。知恵伊豆の異名で知られた信綱のもと、水道奉行には関東郡代の伊奈忠治が就いた。さらに江戸町奉行の神尾備前守元勝が玉川上水の開設を命じられ、水利の技術を持ち土木工事にも明るかった庄右衛門と清右衛門の兄弟に上水工事のための調査を命じている。 mlit

町人兄弟、大工事を担う

実際に工事を請け負ったのは、身分の高い武士ではなく、町人の庄右衛門・清右衛門兄弟だった。この兄弟の出自については実のところ明らかになっていない。江戸の町人であったとする説、羽村付近出身の農民であったとする説、羽村の旧名主・加藤家の出身で後に江戸に出たとする説など、諸説が残るのみである。 mlitmlit

興味深いのは、兄弟が単なる下請け業者ではなかったという点だ。兄弟は羽村から江戸への導水計画を自ら立て、設計書と絵図面を作成した。その絵図面をもとに老中・松平信綱と神尾備前らが立ち会って実地調査を行い、検討の結果、兄弟の計画が採用された。つまり玉川兄弟は、単なる作業員ではなく、ルート選定という工事の核心部分を担う「設計者」でもあったのである。 mlit

こうして総奉行に松平信綱、奉行に神尾備前、水道奉行に伊奈忠治、そして庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請け負うという体制が整い、承応2年(1653年)4月4日に工事が始まった。後年、この功績によって兄弟は「玉川」の姓を名乗ることを許されている。 mlit

羽村から四谷大木戸へ――43キロの難題

工事のルートは、多摩郡羽村(現・東京都羽村市)の多摩川に設けた取水口から、江戸の東の玄関口にあたる四谷大木戸(現・新宿区)まで。その距離はおよそ43km、自然流下によって水を導く素掘りの開渠水路として計画された。 bunka

この工事がどれほど困難なものだったか、数字を見れば一目瞭然だ。約43kmの距離を、わずか92mの標高差で水を流し切らなければならなかった。平均すればわずか1kmあたり2m強という、気の遠くなるような緩やかな傾斜を、正確に測量し続ける必要があったのである。当時の測量技術と経験だけを頼りに、武蔵野台地の広大な地形を読み切った玉川兄弟の技量は、今なお驚嘆に値する。 tokyo

二度の失敗、そして「水喰土」

しかし工事は一筋縄ではいかなかった。「玉川上水起元並野火留分水口之訳書」という史料によれば、完成までに2度の失敗があったと伝えられている。 mlit

その顛末にも諸説あるが、有力な伝承の一つはこうだ。1度目は多摩郡日野の渡し付近、青柳村(現・国立市青柳)の段丘下から水を引いたが、府中八幡宮下あたりで水が流れなくなってしまった。2度目は福生から掘り始めたものの、熊川村(現・福生市熊川)付近で、浸透性の高い土壌に水がことごとく吸い込まれてしまう「水喰土(みずくらいど)」という難所にぶつかった。せっかく掘り進めた水路が、地面に水を丸ごと呑み込まれてしまうという事態は、当時の人々にとってどれほどの衝撃だっただろうか。現在も福生市熊川には、この失敗の記憶を伝える「みずくらいど公園」が残されている。 mlit

こうした難工事を乗り越えるため、信綱配下の家臣・安松金右衛門らが技術面で兄弟を補佐したとも伝えられる。町人の知恵と、幕府側の測量・行政の力が組み合わさって、ようやく工事は軌道に乗ったのだろう。

完成、そして給水開始

度重なる失敗を経てなお、工事の速度は驚くべきものだった。承応2年(1653年)4月4日に着工した工事は、承応2年2月に着手、翌承応3年(1654年)6月に竣工したとされる(着工月については史料により若干の異同があるが、いずれにせよ着工から1年余りという短期間である)。承応3年(1654年)には給水が開始され、四谷大木戸から先は暗渠となって四谷見付へ送られ、そこから江戸城と虎ノ門方面へ二分されて給水された。 www.ktr.mlit.go.jp +2

わずか1年余りで43kmもの水路を、しかも二度の失敗を乗り越えながら完成させたという事実は、玉川兄弟と工事に関わった人々の執念を物語っている。

江戸の繁栄を支えた「地下の大動脈」

玉川上水がもたらした恩恵は、江戸市中の飲み水にとどまらない。開削当初から左右両岸に分水路が整備され、武蔵野台地の新田開発に大きく寄与した。享保の改革の頃からはさらに分水の開設が進み、荒れ地だった武蔵野の各村々が、この水によって豊かな農地へと生まれ変わっていく。 tokyo

そして玉川上水は、一度の完成で役目を終えたわけではない。明治時代になり鉄の水道管を用いた近代水道が整備されるまで、実に約250年間にわたって江戸・東京に水を供給し続けた。神田上水・千川上水とともに「江戸三上水」と称されるこの水路は、まさに江戸という巨大都市の地下を流れ続けた大動脈だったのである。 gendai

おわりに――名もなき町人が残したもの

玉川兄弟については、生まれも育ちもはっきりしないという不思議さが今なお残る。それでも、幕府の重臣たちが立ち会う場で自ら設計図を示し、二度の失敗にもめげず、わずか1年余りで43kmの水路を完成させたという事実だけは、動かしようがない。

身分の高い武士でも学者でもなく、名もなき町人兄弟の技術と執念が、260万都市・江戸の暮らしを250年にわたって支え続けた。羽村の取水堰に今も立つ玉川兄弟像は、その静かな偉業を今に伝えている。


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